« 2012年6月14日 | トップページ | 2012年6月28日 »

2012/06/20

神と神性とについて

 この説教は、説教集の最後にあるだけに、エックハルトの思想の究極とも言える内容である。それは、神とは何かという問題に対して、考えられ得る最深のアプローチとなっている。神とは何か?そもそもそれは、考えることが可能な問いなのだろうか。自分よりも無限に大きな対象である神について、「それは何か」と問うのは、蟻が象について探求するようなものではないのだろうか。しかし人間の魂は、神という象の前で、蟻ではないとエックハルトは言う。それはやはり象なのである。神が人の魂をご自身に象って創造されたから。
「神が人を創造したとき、そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを顕わした。それは神が現に働いているわざであり、永遠なる神のわざである。そのわざは、魂以外の何ものでもないほどに大いなるものであり、また、魂さえも神のわざそのものに他ならないのである」と彼は言う。彼によれば、「神」とは、この世界の被造物が発する神性の反映なのである。もちろん「神」は、私たちの意識とは関係なく存在する。しかしその神(エックハルトはこれを神性と呼ぶ)は、私たちの意識を遙かに超えた存在であり、認識することはできない。私たちが認識する神は、私たちの魂が反射する神性の像(いや、正確には、その像のそのまた精神への投影像)なのである。
 これらのことを前提にしてエックハルトは、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と語る。この「神性」とは、私たちに認識できない「神の本体」とでも言うべきものである。そして、この「神性」は、働くことがない。「働き」すなわち「わざ」は、被造物の方にある。被造物の中にある「神のわざ」は、神(すなわち神性)がそのように措定したのであり、その定めは永遠に渡るものであり、永遠に神のわざを行い続けることにより神の臨在を生み出すのであり、人の魂もそれにより自己の浄福を造り出すのである。この「造り出す」とは、奇妙な表現かもしれないが、神性が働かないものである以上、魂は独力で浄福を造り出さざるを得ない。しかしエックハルトによれば、「魂さえも神のわざそのものに他ならない」のであるから、魂が己が浄福を造り出すのは、「神のわざ」として、すなわち神によってであり、神と魂との距離はそれほどに近いのである。
 しかし、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」とエックハルトは語る。そしてまた、「内なる人と外なる人とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と語る。この二つの隔たりの間には、いずれも有限から無限への壁と時間と永遠との間の飛翔が横たわっているのである。そして、神がその壁と飛翔とを超えて存在しているように、人の魂もまたそれらを超えて存在しているのである。
 それでは、魂がこの壁を超えて飛翔するとき、彼は何を経験するだろうか。それは、エックハルトによれば、「神が消える」ということである。そればかりでなく、すべてのものが消える。神無しには何ものも存在できないからであり、その意味は、個体性の消滅ということである。例えば、永遠の世界においては、「場所」というような局所的な概念は存在しないとすれば、そこにはまた個体性も存在しないことになる。同様に時間についてもそのように言えるのであり、「神」ということと「個」ということは、そのように結びついているのである。「すべての被造物が神と言うとき、そこで神は、『神』と成るのである」とエックハルトは言う。これが「個体性」という意味であり、私たちはその中で神を認識するのである。
 もし私が、神を愛するゆえに、自分の個体性を脱却しようと願うなら、それは良いことに思われる。「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とパウロも言っている。そして、それにより、私の個体的な欲望もまた消滅し、自由に主に仕えることができるようになるだろう。しかし、そのとき私は、この「仕える」ということをもう一度問い直さなければならなくなる。エックハルトが次のように言っているからである。
「わたしが神の内へ帰り来て、神のもとにも立ちどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年6月14日 | トップページ | 2012年6月28日 »