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2012/06/10

 翌日、通辞が再び牢を訪れ、硬い表情で話しかけた。「どうだな。思案はしたか。沢野が申した通り、無益な強情は続けぬがよい。我々とて本意から転べとは言うてはおらぬ。ただ表向きな、表向き転んだと申してくれぬか。あとはよいように、するゆえ」。しかしロドリゴは、一切応じなかった。彼は、その彼の態度が、役人に対する最後通告となるであろうことを想像していた。
 その想像通り、翌日まず朝食が与えられなかった。昼近くに鍵が開いて、今まで顔を見せたことのない上半身、裸の大男が顎をしゃくって「出ろ」と言った。それから彼は、後ろ手に縛られ、痩せた驢馬のような裸馬にまたがらせられて、長崎市中を引き回された。一行の後には、祭のように押しあう群衆が従い、司祭が縄で縛られた不自由な体をねじらせるたびに嘲笑がひときわ大きくなった。馬糞と小石が飛んできて司祭の頬にあたった。群衆に向かって微笑を作ろうと努めても、もう顔は強張ってしまっている。今はただ眼をつぶり、自分を嘲っている顔、歯をむきだしている顔を見まいと努力するより仕方がなかった。
 迫害のとき、信仰者のそばにキリストが寄り添われる。たとえあのラザロのときのように、すぐそばにおられなくても、また到着が遅れることがあったとしても、キリストはその人が迫害に耐えることができるように、彼を助けられるのである。それは、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われた聖書の言葉が真実であるからであり、キリストは今日でも、そのご自身の言葉に、どこまでも忠実なのである。ロドリゴは、このキリストの臨在により、この迫害の大きな舞台において、それに耐える力だけでなく、主と共にある大いなる喜びをも与えられていたのである。
 『背中を突かれて真暗な囲いに足を入れると、突然、悪臭が鼻をつきあげてきた。尿の臭いである。床はその尿にすっかり濡れているので、しばらく吐き気がおさまるまでじっとしていた。』
 ロドリゴは、この二畳ほどの光のない囲いの中にいた。『凄まじい夜の静粛が彼の周りを囲んだ。すると闇が木立をかすめる風のように、死の恐ろしさを突然、彼の心に運んできた。両手を握りしめて彼はあ、あっと大声で叫ぶ。すると恐ろしさは引潮のように去っていく。それからまた押し寄せる。懸命に主に祈ろうとしたが、心を途切れ途切れにかすめたのは、血の汗を流したあの人の歪んだ顔だった。今はあの人が自分と同じように死の恐怖を味わったという事実も、慰めとはならなかった。額を手でぬぐいながら、ただ気をまぎらわすために彼はこの囲いの中を歩きまわった。体を動かさないではいられなかったからである。』
 信仰者にも、ときとしてキリストの臨在が感じられなくなることがある。キリストが自分を見棄てたのではと思えるようなときがある。彼が窮地に追い込まれたというのではない。彼が置かれている状態は、それほど変わっていないのに、襲い来る不安に乗じて、疑いが彼の心を圧倒する。そのとき、彼と主イエスとの個人的な関係は、もはや役に立たなくなる。というのも、それは信仰者自身の心にかかっているからである。苦難や恐怖が彼と主イエスとの関係に打ち勝つほど大きくなるとき、そしてそれはあり得ないことではないが。そのとき、最後の砦は、「神の言葉」である。キリストもそれによって悪魔の誘惑に打ち勝たれた。そして、私たちも打ち勝つことが可能なのである。もし彼がそのすべてを疑わず、主イエスのように、その聖なる剣を行使するならば。
 そのとき、人の声が遠くで聞えた。キチジローが告悔を願おうとして来て、役人に叱られていたのであった。ロドリゴは、聖書に出てくるあのユダのような彼のために赦しの祈りを呟いたが、それは心の底から出たものではなかった。
 『司祭は基督がユダに言ったあの軽侮の言葉をまた噛みしめた。だが、この言葉こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあの人の人生におけるユダの役割というものが、彼には本当のところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのであろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。まるでそれではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。それに・・・・・それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄ておかれたのか。それらの疑問は神学校の時も、司祭になってからも、沼にうかんでくるどす汚い水泡のように意識に浮かびあがってきた。そのたびごとに彼はまるでその水泡が彼の信仰に影を落とすもののように考えまいとした。だが今は、もう追い払うことのできぬ切実さで迫ってきている。司祭は首をふって溜息をついた。最後の裁きの刻はやがてやってくる。人は聖書のなかに書かれた神秘をすべて理解することはできぬ。だが司祭は知りたかった。知り尽くしたかった。「今夜、お前はたしかに転ぶだろう」と通辞は自身ありげに言った。まるで、ペトロにむかってあの人が言われたように。「今夜、鶏鳴く前に、汝三度我を否まん」黎明はまだ遠く鶏は鳴く時刻ではない。』
 その通辞の言葉通り、ロドリゴはその夜、踏絵を踏んだ。彼は、まったくどうかしていた。彼が牢の番人の鼾だと思っていた声が、実は穴釣りにされて苦しむ農民のうめき声であったことや、彼の牢の壁に発見した「讃えよ、主を」という文字が実は、信仰に転んだフェレイラがかつて掘り付けたものであったこと。フェレイラが彼に語った日本宣教における挫折の数々。そして、彼は挙句の果て、ロドリゴに、たとえ教会から蔑視され、布教をあきらめても、今穴釣りにされて苦しむ農民を苦しみから救うことこそが、今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為であり、今この場にキリストがいたら、間違いなくキリストは彼等のために転んだだろうと言った。それらがロドリゴの心を錯乱させ、彼の心から、御言葉を追い出したのであろう。
 ここに信仰者の戦いがある。信仰者とは何か。それは、この世界で正しいこと、愛の行為を行う者ではない。そうではなく、彼はひたすら御言葉を信じ行う者なのであり、そのような彼を通してだけ、キリストが愛の行為をなされることができるのである。

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