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2012/06/06

 ロドリゴが再びイノウエ筑後守と会ったのは、それから五日後であった。イノウエは、いつものように微笑を浮かべて彼を迎え、最近の自分の平戸行きの話から切り出した。しばらく彼に棄教を説得した末、「パードレ。これからしばらくの間、この年寄りが申した二つのことを、よく考えられるがよい。一人の男に醜女の深情けは耐えがたい重荷であり、不生女は嫁入る資格なしとな」と優しく言い捨てて帰って行った。
 そこでの毎日は、ロドリゴの心を砂のように軽やかに流れて行った。鋼鉄のように張った気持ちが少しづつ腐蝕していく。殉教を覚悟していた心の一角がどこか弱まったような気がした。そして、日本の役人や奉行がほとんど何もせず、蜘蛛が巣に餌のかかるようにじっと待っていたものは、自分のこうした気のゆるみだったのだと司祭はその時初めて気がついた。
 そして、恐れていた通り試練が訪れた。朝まだ暗いうちに牢から連れ出され、海の近くの松林に連れて行かれた。そこでロドリゴは、戦慄のうちに相棒のガルペと3人の信徒の殉教の様を見せられた。体に菰を巻き付けられて蓑虫のようにされた3人は、舟に乗せられて海に漕ぎ出され、そこで舟から蹴落とされて海に沈んで行った。それを見たガルペも岸から海に飛び込み後を追ったが、ついに力つきて沈んで行ったのであった。心を動転させてたたずむロドリゴの背中から通辞が言った、「ああいうものは、幾度見ても嫌なものだて。パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」と。
 自分の宣べ伝えた福音が、返って相手の状況を窮地に追い込む、それは何という矛盾であろう。「なぜ、こんなことに」という懐疑、迫害者の卑怯なやり方への怒り、その原因を作った自分自信への羞恥心、それらが入り交じって信仰者の心を執拗に苦しめる。彼は、百姓たちの命を救うために宣教をあきらめるべきだろうか。彼は、立ち止まって考える、「主イエスは何と言われるだろうか」と。しかし、そのとき彼の心は、もはや主イエスから離れ始めているのである。というのも、彼はそれ以前に、「主イエスは何と言われたか」と問うべきであり、聖書にすでにその答えがあるからである。果たしてロドリゴの心に、神への懐疑心が忍び込んできた。彼は牢の中で、ろくに食事もせずに心を迷わせていた。
『神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声を出して笑った。』
 何ものにも動かされない山のような信仰、それはどうしたら得られるのだろうか。それは、たぶん何も考えないことだろう。信仰者が自分の理性であれこれ考え始めるとき、彼は迷いの中を突き進んでいるのである。「あなた方の答えは、然り然り、否否であるべきだ」と主イエスは言われた。
 九月になり、空気に幾分ひんやりしたものを感じはじめた午後、彼は突然あの通辞の訪問を受けた。そしてその日、ついにかつての恩師フェレイラと会わされることになった。市中の寺で、年とった僧侶のうしろに、黒っぽい着物を着せられたフェレイラが俯きながら歩いてきた。「お前が転ぶよう、奨めろと・・・私は言われてきた」と彼は言った。「二十年、私はこの国に布教したのだ。この国のことなはお前よりもよく知っている」と。「そしてお前の眼の前にいるのは布教に敗北した老宣教師の姿だ」。「布教には敗北ということはありません。あなたや私が死んだあと、また新しい一人の司祭がマカオからジャンクに乗り、この国のどこかにそっと上陸するでしょう」とロドリゴは応酬した。しかしフェレイラは、確信を込めて言いきった。「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と。さらに彼は言った、「日本人は人間を越えた存在を考える力を持っていない。彼らが信じていたのは基督教の神ではない」と。「基督教と教会とはすべての国と土地とを越えて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」とロドリゴは叫んだ。
 例え百歩譲ってそうであったとしても、フェレイラの言ったことが真実であったとしても、それが日本宣教をやめる理由にはならない。主イエスは、「すべての国民を弟子とせよ」と言われたし、「日本は例外だ」とは言われなかった。私たちは、宣教が直接の目的ではない。主イエスの命令こそがその目的なのであり、例え結果がどうであれ、その評価によって方向を変えることはないのである。それゆえ、ここから逸れる者は、偽り者なのであり、すべての悪の根がそこから生じるのである。「あなたは、もう私の知っているフェレイラ師ではない」、というロドリゴに彼は言った。「そう、私はフェレイラではない。沢野忠庵という名を奉行からもらった男だ。名だけではない、死刑にされた男の妻と子供も一緒にもらった」。
『闇の中で彼は、この夜、フェレイラは眠っているだろうかと考える。いや眠ってはいまい。あの老人は今頃、自分と同じこの町のどこかで闇の中に眼をじっとあけながら、孤独の深さを噛みしめているであろう。その孤独は今、自分が牢舎で味わわねばならぬ寂しさなどよりはもっと冷たくもっと恐ろしいものなのだ。彼は自分を裏切っただけではない。自分の弱さの上に更に弱さを重ねるため、別の人間をそこへ引きずりこもうとしている。主よ、あなたは彼を救わぬのですか。去れ、行きて汝のなすことをなせ。見離された群のなかに、あなたはあの男をも入れるのですか。』
 ここに一つの淵があり、それを越えて、こちらからあちらにも、またあちらからこちらにも渡ることはできない。それは、キリストが設定された淵であり、愛そのものである彼自信がそれを取り除こうとはされないのだ。それは、この淵をあえて越えようとするものは、やがてキリストの愛をも越え出ようと意志するであろうことを彼が知っておられるからである。

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