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2012/05/29

 役人に引かれて行くロドリゴの目に、ボロをまとった大人や子供たちの家畜のように光る目が見えた。その幾人かに向けて、頬に無理やりに微笑をつくってみせたが、一人として応える者はなかった。その中に、何人かの隠れた信者がいるのかどうかも彼らの視線からは伺うことができなかった。そのようにして彼は、他の捕らえられた村人らのところに連れて行かれた。それは、小さな窪地に小枝を集めて作った小屋であった。そこには、彼の見知った村人たちも何人かいた。意外にも役人たちは、彼らの間の会話を咎めないので、なんだか妙に自由な雰囲気であった。
 ロドリゴはそこで、あの巡察師ヴァリニャーノ神父が名前を挙げていた恐るべき人物イノウエ筑後守を見た。しかし、その人物があまりにも無邪気でものわかりが良さそうな温和な人間に見えたため、その者がイノウエだとは夢にも思わなかった。また、ロドリゴはそこで、通辞(通訳)がら信仰問答を仕掛けられた。この通辞は、一度は洗礼を受けたことがあったが、その過去を否定し、自分は切支丹ではないと主張していた。そして、ロドリゴは彼から初めてフェレイラ師の消息を聞いた。それによると師は、今は名も日本人のごとく改め、長崎にて邸、女をあてがわれ、結構な身分だということであった。また通辞は、イノウエの手によって教会を裏切った宣教師の名を3人挙げた。ロドリゴは、自分の信仰が少しづつ崩れて行くのを感じた。
『あの人(フェレイラ)まで転ぶようでは、とても自分にも、これから見舞ってくる試練は耐えきれぬかもしれぬ。この不安が突然、胸をかすめた。烈しく首をふり、吐き気のようにこみあげてきたこの不愉快な想像を無理矢理に抑えつけようと努力すればするこどその想像は意志とは無関係に浮かんでくる。祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうとしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き・・・・』
 信仰者の心を燃え立たせるものとは、いったい何だろう。「祈り」か「信仰告白」か、それとも「讃美」だろうか。しかし、それ以前に何かが必要なのだ。そして、それがなければ、きっと祈りも讃美も役には立たないのだ。それでは、それはいったい何だろう。それは、「主イエスとの個人的な関係」である。それは確かに、祈りと讃美の生活の中で培われる。しかし、祈りと讃美自体は所詮道具に過ぎない。だから、「私は今日聖書を何章読んだ」などと言っても、それは所詮空しい。むしろその結果として、主との関係が深まらなければならないのであり、この「生きた主イエスとの個人的な関係」だけが、人をして試練に打ち勝たせる力なのである。そこで、私たちはもう一度自分自身の信仰を吟味してみる必要があるだろう。自分が信仰を燃え立たせたのは、いったいどんな時だっただろうかと。そこに、何か虚栄心、党派心、自己顕示欲、現実逃避、等々が少しでも含まれていなかっただろうかと。
 それからロドリゴは、今度は手首を縄で縛られ、裸馬に乗せられて連れて行かれた。昼すぎに諫早という町をすぎた。ここには、大きな堀と築地の塀をめぐらした邸が藁や萱葺きの周囲の家々にかこまれて建っていた。
『祭司は十数世紀前にあの人もまた今の自分が感じているこの悲しみのすべてを、渇ききった舌で味わったのだと思った。その交流の感情はいかなる甘い水よりも彼の心をうるおし、ゆさぶった。「いざ歌え、我が舌よ」、彼は馬の上で、頬に涙が伝わり流れてくるのを感じた。私はどんなことがあっても転ばないであろう。』
 強飯を侍たちが食べる間、司祭は馬からおそされ、樹木に犬のようにつながれた。そこに粟飯を破籠に入れて置いたのは、キチジローだった。その顔を司祭はきびしい表情で眺めた。浜辺で見た時はこの男を憎む気持ちも起きぬほど疲れていたが、今、この男にどうしても寛大にはなれない。草原で干魚をたべさせられたあとの咽喉の渇きが、煮かえるような思いと一緒に突然彼の心に甦ってきたのだった。
『「去れ、行きて汝のなすことをなせ」基督でさえ、自分を裏切ったユダにこのような憤怒の言葉を投げつけた。その言葉の意味が司祭には長い間、基督の愛とは矛盾するもののように思えてきたのだが、今、蹲って撲たれた犬のような怯えた表情を時々むけている男をみると、体の奥から、黒い残酷な感情が湧いてくるのであった。「去れ」と彼は心の中で罵った。「行きて汝のなすことをなせ」』

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