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2012/05/25

Ⅳ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 村民たちは、役人の探索に彼らの養ってきた知恵でうまく対応した。結局役人たちは、疲れ果ててあきらめて部落から引き揚げて行ったようだった。しかし後日になって再び、突然昼前に役人たちがやってきて探索を始めた。彼等は今度は、切支丹の証拠が見つからないのを見ても、この前のように諦めて引き揚げようとはしなかった。「じいさま」と呼ばれていた最年長の信仰の長老を捕らえ、馬につないで牽いて行った。また、「一同の中から三人ほど、明日、長崎に出頭せよ」と言い渡した。信者たちは、奉行所に誰を差し出すかを随分長く議論しあったが、結局キチジローとイチゾウ、モキチが選ばれた。「パードレ、わしらは踏絵基督ば踏まされるとです」。モキチがうつむいて自分自身に言い聞かせるように呟いた。「足ばかけんやったら、わしらだけじゃなく、村の衆みんなが同じ取調べば受けんならんごとなる。わしら、どげんしたらよかとだ」。これを聞いたロドリゴは、憐憫の情が胸を突き上げ、思わず「踏んでもいい、踏んでもいい」と叫んでしまった。そして、自分が祭司として口に出してはならぬことを言ったことに気がついた。「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」、キチジローが涙ぐんで言った。
『聞き棄ててしまえば何でもない臆病者の愚痴がなぜ鋭い針のようにこの胸にこんなに痛くつきさすのか。主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の恐ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ、迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。キチジローの愚痴にはその問いがふくまれていたような気が私にはしてならない。』
 信仰者は、どこまで神を信じ続けられるのか。様々な不条理が次々に彼を襲うとき、「いくらなんでも、ひどすぎる。これでは、神も仏もないではないか」との思いが心にわき起こることがないとも言えない。それは、程度の問題なのだろうか。人それぞれに、「ここまでは我慢できるが、それ以上は無理」というところがあるのだろうか。そしてキチジローは、たまたまそれが他の信者と比べて低かったというだけだったのだろうか。もしそうなら、信仰は相対的なものと言えるかも知れない。そして、すべての人は、自ら信仰を捨てる可能性を内に秘めており、たまたま彼が生涯信仰を貫き通せたのは、全くの偶然であったということになるのかも知れない。しかしそれならば、死ぬまで信仰を守り通した者と不幸にも棄教してしまった者とは、内面的には何の違いもないのであり、結局躓かなかった者も躓いた者と同じ内面性を持っているのだから、逆に見れば、躓いてもまた信仰を完全に捨てたのではなく、いつでもカムバックできるのだということになるだろう。そして、それを突き詰めて行くと、あのイスカリオテのユダもキリストを捨てたのではなく、祭司長たちからもらった銀貨30枚を自ら投げ出したときに、彼は再び信仰を拾い返したと言えるのだろうか。
 ああしかし、そのように考え始めるとき、私たちは、終わりの無い迷宮に入って行ってしまうような気がしないだろうか。事実そうなのである。私たちは、考えてはならないことを考え始めているのである。それは、主に代わって裁きを行うということである。ユダが永久に信仰を捨てたのか、それを拾い返したのか。そして、主はそんなユダをもう一度赦されたのか、それとも彼に永遠の刑罰を宣告されるのか。それらを考えることは、主の代わりに裁きを行うことなのである。なぜそれらを考えたいのか。その理由は、自分が安心したいからである。自分がこうやっていれば、主から裁かれないで、天国の祝福に与ることができるという保証が欲しいのである。そして、その保証さえ与えられれば、ちょっと安心して、少し楽をしようかと考えているのではないだろうか。
 『この試練が、ただ無意味に神から与えられるとは思いません。主のなし給うことはすべて良きことですからこの迫害や責苦もあとになれば、なぜ我々の運命の上に与えられたのかをはっきり理解する日がくるでしょう。』
 ああしかし、それもまた欺瞞に過ぎない。理解することが先だろうと後だろうと、私たちはそれによって主の上に立とうとしているかも知れないのである。
 奉行所に出頭した3人は、結果的に踏絵を踏んだが、それでも赦されることはなかった。『お前らは、それでお上をだましたつもりか。なら、更に言う通りのことをやってみよ。この踏絵に唾をかけ、聖母は男たちに身を委してきた淫売だと言ってみよ』と命じられ、それができなかったモキチとイチゾウはついに自分たちが切支丹であることを体全部で告白してしまった。キチジローだけが、役人に脅され喘ぐように聖母を冒涜する言葉を吐き、拭うことのできない屈辱の唾を踏絵の上に落としたのだった。この二人は、水磔という恐ろしい刑に処されることになった。波打ち際に立てられた二人の十字架を見ながら、ロドリゴは考えた。『海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼らの死のあとにも同じ表情をして拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。しかし、そんなことはないのだ。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。しかし、万一、もちろん万一の話だが、万一神がいなかったならば・・・・』と。
 それからというもの、奉行所の探索は勢いを増し、ロドリゴとガルペは、ついに別々に逃亡する決心をした。一人が捕まっても、もう一人が生き延びて祭司の務めを続けるためであった。やっとのことで舟でたどり着いた島の小さな村も、すでに役人たちの取調べの最中であった。ロドリゴは山中をさまよい歩き、まだ手の入っていない村を捜した。そのうちに、偶然にまたキチジローと巡りあった。山中で彼と共に一夜を明かしながら、ロドリゴはキチジローのことを疑っていた。彼が役人の手下にされて、次から次へと村人を告発しているのではないかと。そのキチジローが差し出した塩の利いた干し魚を食べたばかりに、激しい喉の渇きに耐えられず、キチジローが水を探しに自分の元を離れるのを許してしまった。しばらくして、彼がどこからか用意の良いことに持ってきた竹筒の水を飲み干しているロドリゴの耳に聞こえてきたのは、彼を捕らえに来た役人たちの足音であった。

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