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2012/05/23

Ⅲ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 ロドリゴたちが日本に潜入してから一ヶ月近くが過ぎた。役人を恐れ、村人から提供された山中の炭小屋にまんじりともせずに隠れていた二人も、いつしか心が緩み、小屋の外に出て散歩を楽しんでいた。彼らはまた、祭司としての仕事に生き甲斐を感じていた。ミサをたて、信者たちの告悔を聞いて赦しと祝福の祈りをし、赤ん坊に洗礼を授け、百姓たちは基督教の禁制などまるで無視したように、次から次へとやってくるので眠る暇もないほどであった。それというのも、ある事件がきっかけで、ロドリゴの活動範囲が五島にまで広がったからであった。それは、キチジローが伝えた情報をたよりに二人の百姓が五島から炭小屋まで来たことから始まった。ロドリゴは、キチジローの口軽には迷惑していたが、彼のために恩恵を蒙ったのも事実であった。彼はキチジローに告悔を勧め、彼は素直に自分の過去の罪をすべて告白した。すべてが順調に進んでいるように思えた。しかし、どこか変に感じられることもなくはなかった。
 『もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。そうした物は舟の中にみな置いてきてしまったと言うと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてわけてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼等はなにかを間違っているのではないでしょうか。』
 信仰者は、自分の信仰が健康で正常な状態であることを何によって知るのだろうか。初歩的には、あるいはそれは、自分自身が自覚する、何か敬虔な気持ちのような、いわゆる「信心の自覚」のようなものかもしれない。それはときとして、教会堂にかけられた十字架や聖画を見るときに心に湧き起こる。それから、アクセサリーのような銀の十字架を手のひらに握り締めるときに、その心が呼び覚まされるということもあるだろう。そのように、人はそれぞれに自分の信仰を自覚する方法を持っているのだろう。しかし、信仰の経験を積んで、もはや十字架のアクセサリーや聖画には左右されないような信仰を身に付けたとしても、もしその彼の信仰が、実際には自分の心の中のアクセサリーや聖画のようなものに過ぎなかったとしたら。
 『なぜこのように私はあの方の顔を思い浮かべるのか。おそらくそのお顔が聖書のどこにも書かれていないからでしょう。書かれていないゆえに、それは私の想像に委せられ、そして私は子供の時から、数えきれぬほどそのお顔をまるで恋人の面影を美化するように胸にだきしめたのです。神学生の時、修道院にいる時、私は眠れぬ夜、彼のうつくしい顔をいつも心に甦らせました。』
 そのような信仰の姿勢は、何かによって矯正されねばならないものかもしれない。というのは、それは心の中に生じた偶像と考えられないこともないだろうから。しかし、それを克服した人の心には、いったい何が残されるのか。それは、理想的には、主イエスへのガラスのような透明な愛でありたいのだが、そのようになれるためには、人は多くの苦難を経なければならないのかもしれない。信仰の先達であるパウロがそのように言っているからである。そして、その途上にある人は、その心が再びこの世界の何かを求めてさ迷うということがあり得るのである。それは、例えば、「やりがい」とか「奉仕の満足感」とか、その他様々なものが考えられるのである。
 『嬉しさとも幸福感ともつかぬ感情が急に胸をしめつけました。それは自分が有用だという悦びの感情でした。あなたの全く見知らぬこの地の果ての国で私は人々のために有用なのです。』
 たぶん主は、ロドリゴために、しばしの試練を用意されておられたのだろう。舟で五島から戻り、いつものように砂浜に身を隠していた彼を迎えたのは、役人たちが村を捜索しているので急いで逃げてくれとの知らせであった。

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