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2012/05/18

Ⅰ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 ポルトガルを出航した3人の宣教師は、インドのゴアを経てついにマカオに到達した。彼らの1人サンタ・マルタは、マラリヤにかかり、その地で衰弱してしまったので、そこに置き去りにせざるを得ず、ガルペとロドリゴだけが鎖国中の日本に漂着することになる。彼らはマカオで、キチジローという日本人に偶然出会い、日本へ連れ帰ることと引き替えに道案内を得た。この男は、酒好きの上、ずるそうで油断のならな人間のようではあったが、他に選択の余地もなかった。ロドリゴは、本国へ宛てた書簡の中にこう記している、「ここは真実、地の果てです。蝋燭の灯の下、私は膝に手をおろし、じっとしています。じっとして自分が今、あなたたちの知らぬ、あなたたちの一生涯、訪れもしないこの極地に来ているのだという感覚をじっと味わっているのです。それは、あなたにとても説明できぬ疼くような感覚、まぶたの裏にあの長いあまりに恐ろしかった海や、訪れた港が一時に浮かびあがり、胸は苦しいほど締めつけられます。たしかにこの誰も知らぬ東洋の町に今、いるということが、夢のようでもあり、いや夢ではないのだと思うと、それは奇跡だと大声をあげて叫びたくなります。本当に私はマカオにいるのか。自分は夢をみているのではないかと、まだ信じられないくらいです」と。
 主イエスの十字架を仰ぎ、ひたすらその跡に従い、幾多の困難をも乗り越え、宣教の果てしない夢を追っていた信仰者の目が、いつしか自分自身に向けられるということが起こる。それは、たぶん一時のため息、深呼吸、気分転換のようなものかもしれない。しかし、その視線は明らかに、天上のものから地上のものへと映って行ったということを意識していなければならない。というのも、一度地上に降りてしまった視線は、すでに元あった場所を忘れてしまっているからである。それが天上のものであるゆえに、彼の地上的な意識は、それを決して覚えていられないのである。かくして、彼の視線は、もしかすると、それが元あったところの「主イエス」ではなく、「教会」の上へと動いて行ってしまうかも知れない。ところが「教会」は、天的な性質としての「主の御体」という側面と、地上的な「信徒の群れ」という側面があり、彼の心の視線がそのどちらの上に注がれているかが、容易には判別しづらいのである。そして、もし彼の心の目が地上の教会に注がれた場合には、それが何か機能的な組織に映るかも知れない。そして、彼の弱さが現れた場合には、自分の業績を誇ったり、またその反対に負い目を感じたりすることになる可能性がある。しかし、それはまだ良い方である。というのは、もし彼の心の目がある特定の人や人一般に注がれた場合には、もしかすると彼は、その対象である人または人一般と自分を比べて喜怒哀楽することになるのかもしれない。
 『雨のマカオ、それはこの哀れな町をさらにみじめにするだけです。海も町もすべて灰色に濡れ、支那人たちは家畜小屋のような家にとじこもり、泥だらけの道には人影もありません。こんな道を見ていますと私はなぜか、人生を思い、悲しくなります。』
 それでは、そのように地上のものに向けられていた信仰者の目が、再び天の栄光へと向けられる契機はいったいなんであろうか。おおそれは、彼の主イエスへの愛である。天から落ち、あらゆる天上の祝福を忘れ、この地上をさまよっていた彼の目が再び、万軍の主の燃える眼差しへと向けられるかどうかは、彼が普段の生活において、どれだけ主イエスに近づき、主イエスに従い、愛していたかによるのである。この奇跡は、起こるのであり、主イエスこそがご自身が「私は羊の門である」と言われるように、天国への入り口であり回帰点なのである。
 『だが今夜の私にとっては、その顔はゴルゴ・サンセボルクロに蔵されている彼の顔なのです。神学生の頃見たあの絵はまだ、なまなましく記憶に残っています。基督はその墓に片足をかけ、右手に十字架を持って、真正面からこちらを向き、その表情は、チベリアデの湖辺で使徒たちにむかい「我が小羊を牧せよ。我が小羊を牧せよ。我が小羊を牧せよ。」と三度、命ぜられた時の励ますような雄々しい力強い顔でした。私はその顔に愛を感じます。男がその恋人の顔に引きつけられるように、私は基督の顔にいつも引きつけられるのです。』

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