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2012/05/17

まえがき

 ローマ教会に一つの報告がもたらされた。かつてイエズス会が派遣し、日本で二十数年間活動し、地区長という重職に就いて、司祭と信徒を統率してきた長老であったフェレイラ教父が、長崎で「穴吊り」の拷問を受け、棄教を誓ったというのである。そして、この教会の汚名を取り除き、日本宣教における大きな苦境を打開するために、もう一度迫害下の日本に潜入して宣教を建て直そうと計画を立てた司祭たちがいた。彼らは、上司の再三の反対にも屈せず、教会を説得して、ついに日本行きの許可を取り付け、日本をめざしてマカオ行きの船に乗り込んだのであった。
 神は、ご自身のためには命も惜しまない者たちを用いて、主イエスの大宣教命令を推進される。かのフェレイラ教父もかつてはその一人で、神の栄光のためにすべてを捨てて異境の地日本へ赴き、そこで骨を埋めようと決心したのであった。それなのになぜ彼は、後に信仰から離れてしまったのか。しかし、この作品の著者遠藤周作によれば、それは実は信仰から離れることではなく、むしろ信仰の一段深い理解でさえあり得るのである。つまり、躓いてさえなお信仰を持っていることが可能だと言うのであり、これに対してある牧師は、「それは、異端である新普遍救済主義に通じるものであり、もはやキリスト信仰ではない」と言った。
 これをもって、この作品を読むに値しないばかりか、むしろキリスト信仰にとって有害な書物であると断定し、除外することもあるいは可能かも知れない。しかし、私がこの「沈黙」をブログで取り上げてみようと思ったのは、上記のことを踏まえてもう一度この作品を読み直してみて、どうも遠藤周作が、キリスト教徒を惑わすために、あるいはキリスト信仰を骨抜きにするためにこの作品を書いたとは思えなかったからである。というのも、この作品においても、そこに描かれている殉教者の姿により、純粋無垢な信仰が十分に表現されているとも言えるし、また神は侮られるような方ではないから、どのように巧妙な手口を用いたとしても、神の教会に致命的な打撃を与えることは不可能であり、歴史がそのことを証明しているのである。そのことを遠藤周作が意識していようとそうでなかろうと、神が生きた神である限り、この作品により、キリスト教が大きな打撃を受けることはないのであり、返って自らの信仰を先鋭化するための機会となると私には思われたのである。
 かく考える理由は、現代のキリスト信仰にとってのもっとも手ごわい敵は、ほかでもない「平和で幸福な社会」だと思うからである。キリストもヨハネの黙示録の中で、こう言っている。すなわち、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と。現代の教会において、また、様々な信仰書等において、あたかも神が信仰者の人生を豊かで趣のあるものにして下さることを期待するような表現を良く目にすることがある。また、キリストの苦しみは、私たちが日々犯し続ける罪の購いのためだと言われることがある。しかし、パウロは、ヘブル書の中で、「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていない」と言っている。それらの考えは、もしかしたら、遠藤周作がここで先鋭化しようとしている、「キリスト教ならぬキリスト教」と言えるのではないか。私たちは、いつのまにか、知らずして、自らの最も厭うべき「信仰ならぬ信仰」に陥ってしまっているのではないか。そして、主イエスから、「わたしはあなたを口から吐き出そう」と言われるような存在に近づいているのではないかということをもう一度真剣に反省する必要があると思ったのである。

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