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2012/05/10

観想的生と活動的生について

 この説教には、信仰者に馴染みのマリアとマルタという2人の姉妹が出てくる。マルタは主をもてなそうと立ち働いていたが、マリアは主の足元にすわって御言葉に聞き入っていた。エックハルトによれば、「マリアは、なにものともわからぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っていた」のであった。ところでこの「なにものともわからぬもの」とは、「変容」にほかならない。彼女が片時もそこを離れたくなかったもの、その存在のすべてをかけて求めてやまなかったもの、それが「変容」だったのである。しかし彼女自身には、それが何であるか、どのようなものなのか、ということは皆目分からなかった。「変容」とは、誰にとってもそのようなものなのである。しかしそれでは、なぜ彼女がそれに憧れることができたのか。それは、知性ではなく、彼女の霊がそれを求めるのであり、神もまた私たちの内に住まわせたご自身の霊を妬むほどに求めていらっしゃるのである。かくして変容への憧れはわき起こる。「変容」とはなにか。それは、この世界にいながらにして神の姿、すなわち人間イエスの姿に変えられることである。しかし、そこへ至る為には、この世界にあっては、ひとつの道を通らなければならない。「練達」という道である。もっとも、人が主イエスの姿になるためには、神の恩寵が必要なのであり、練達は必要ではない。それが必要なのは、その状態から落ちないためである。神との距離は、この世界の概念で計ることはできない。しかし、それにも関わらず、天は高いところにあるのである。つまり、天における高低は、この世においては、この世界の高低差に対応しているのである。それゆえ天から落ちれば、まずこの世の高いところに落ちる。そこで、その高いところに慣れていないなら、身に危険が及ぶことにもなるのである。
 マルタは、マリアがまだこの練達を身につけていないのを知っていて、それを不安に思い、主イエスに彼女の練達の実現について願ったのである。しかし主イエスは、「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われた。エックハルトは語る、「私たちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである。そのためには、知性のうちで、絶え間なく神へと登りゆくことが必要であり、それは、像による表象の区別性においてではなく、知性にかなった命あふれる真理性においてである」と。この世界において、私たちは神に近づくためにこの世界で練達に励む。しかしその到達点はこの世界にはないことを認識している必要がある。練達において、つまり神への接近にあたっては、私たちには多くの師があり得るし、また必要でもある。しかし神への到達に至っては、もはや師はあり得ない。それには、ただ神の恩寵のみが必要なのであり、そこにあるのはすなわち、あなたと神との関係だけなのである。
 「試練に遭うとき、弱り果ててはならない」と聖書は語る。それは、この世における神への最大の接近の機会は、試練の中にあるからである。そして、そこで弱り果ててしまわないために練達が必要なのである。しかし再び、神に到達するためには、それ以上のこと、すなわち飛翔が必要となる。この飛翔を可能にするものとは、いったい何だろうか。それは、この世界において神と合一すること、すなわち「変容」である。しかしそれはどのようにして可能となるのだろうか。いったいこの世界において、かつて神との完全な合一に達した者があっただろうか。エックハルトは語る、「わたしたちはその証をキリストに見いだす。神が人と成り、人が神となったそのはじめから、キリストはわたしたちの永遠なる救いのために働きはじめ、十字架上の死に至るまでずっと働きつづけたのである。彼の身体のどの部分も、際立った徳を働かなかったところはなかったのである」と。キリストが人となったのは実にそのためであり、彼が神の独り子であるという一点を除けば、私たちと彼との間にどのような違いもないのであり、私たちは彼を模範として彼のように神と合一できるのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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