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2012/04/27

像を介さぬ認識について

 「像を介さぬ認識」とエックハルトは言う。しかし、この世界のすべてのものは、像により認識される。この意味で「認識」とは、対象物そのものではなく、むしろ自分の心に作り出された、対象物の像である。それがどのように高度に複雑な造形をしていたとしても、また反対にどのように簡潔明瞭なものであったとしても、それは所詮対象物そのものではなく、むしろ自分が造り出した自身の一部と言えよう。そこで、このような認識の内にいる限り、私たちは、その対象物を真実には認識することはできず、極端なことを言えば、一種の思い込みの世界にいるとも言えるのである。これがこの世界における私たちの状況であり、そういう意味で、私は、自分の肉体の内に虜になっていると言えるのである。そして、この肉体の牢獄から救い出してくれるものは、何もないのである。
 しかし、もし人がこの生まれつきの肉体の限界を超えることができるなら、彼は、心の底から新たにされて、すべてを直接的に認識することが可能となるだろう。この超越を可能とするものは、いったい何だろうか。それは、肉体的な鍛錬や生来の思考概念の拡張等では達成され得ない。というのも肉体の鍛錬や概念の拡張は、それらの従来の状態の延長なのであるが、問題は、それらの存在性そのものにあったのだからである。つまり、それらがいかに拡張または強化されたとしても、それらの根本的なあり方そのものが変わらない限り、その限界もまた依然として残されたままなのである。この限界は、「個」というものに起因するのであり、それを超越するということは、「個」そのものの存在を揺るがすようなことが起こらない限り、実現不可能なのである。この「認識しようとしている当の存在自体がまた認識そのものの障害でもある」という大いなる矛盾が人間存在の孤立性を如実に表しているのであり、この矛盾を解消する道は、対象との同化以外にないのである。しかし、自己と異なる対象との「同化」は「自己崩壊」以外のものではない。ここに一つの絶対的な限界があるのであり、つまりこの世界は、所詮そういう構造をしているのである。
 それでは、この「人間」という限界の多い存在がこの世界の対象を真に認識するために、どういう道があるのか。それがエックハルトがこの説教で提示しているところの「神との同化」なのである。しかし、被造物とさえ同化できない人間が神と同化できるであろうか。それができるというのがエックハルトの考えである。というのも、聖書によれば、人間は神ご自身に象って造られたのであり、この地上にいる状態で神の御姿に日々変えられて行く存在なのである。しかしそれでも、神と同化することは、やはり自己崩壊にならざるを得ないのではないだろうか。それは、人間存在と神との差異がどれくらいかによるのであり、エックハルトは、この差異が無限に小さいと主張するのである。彼が「わたしが端的に神になる」と言うとき、それは意図的な自己改造などではなく、純粋に人と神との同一性にのみ依存しているのである。
 それでは、このエックハルトの「神と人との同一性」に則って神と同化するとは、いったいどういうことなのだろうか。それは、まさにエックハルトが主張してやまない「自分を捨て去ること」に他ならない。人は、自分と同等のものにしかなることはできない。そして、人にとって自分と同等な存在とは、自分を生んだ、父なる神以外にはないのである。彼は語る、「あなたは、あなたの自己からすっかり離れ、神の自己に溶け入り、あなたの自己が神の自己の内で完全にひとつの自己となるようにしなければならない。そうすれば、あなたは、神の生起せざる有のあり方と、神の名づけえざる無のあり方とを、神と共に永遠に認識するのである」と。
 そのとき、私は自分という存在を依然として認識できるものだろうか。もちろん認識できる。しかし、神と自己とを同時に認識することはできない。というか、そうなってもあなたは、依然として、あなた自身が認識する対象としては、神を認識できないのである。あなたが神を認識するのであれは、神の立場から神を認識するしかないのであり、それならば可能だとエックハルトは言うのである。それでは、百歩譲ってそれが可能だとして、そのときあなたは、自分が神の立場から神を認識していたことを覚えていられるだろうか。それは、ある意味で覚えているし、また別の意味では、覚えていないと言える。というのは、あなたはそのことが起こったということは覚えているが、それがどのようなものだったかについては、何も覚えていないからである。というのも、それはこの世界の思考形態では把握できないようなものであるから。あなたがそれまでいた神の立場から自分自身に戻った瞬間にその記憶は消えてしまう。というか、あなたは、神の立場から自身の立場に何一つ持ち帰らなかったし、また持ち帰る必要もないのである。そのためにあなたはいつでも神の立場になれるのであり、そのようにしていつでも神の知識に入ることができるのである。
 それでは、そのようにしてあなたが神の立場で得た知識を自分自身の立場に持ち帰り、そこで利用するというようなことができるのだろうか。できる。しかしそれには、上で述べたような、神の立場と自分自身の立場の間にある認識のフィルターを通過しなければならない。それはどういうことかというと、神の立場で得た知識に、場所、つまり距離とそれから時間が付加されなければあなたはそれを認識できないからである。誰がそれを付加するのであろうか。あなた自身である。そこには、神とあなた以外にはいないし、神は天上におられ、あなたは地上にいるからである。そのようにして、あなたが天上から地上に持ち込んだ知識は、一見あなた自身が自由に作り出した知識、つまり「作り話」のように見えるかも知れない。しかし、それは真実なのであり、あなたはそれをあなた自身の願望や空想と区別し、聖別しなければならないのである。主イエスは、それを日常的に行われ、未来を知り、人の心の中にあるものをも知っておられたのである。彼の神への無私にして無制限の従順がそれを可能にしていたのであり、それはまた同様にして私たちにも可能なのである。天国と地上は、このようにしてこの世界で接するのであり、これ以外の方法も形態もない。主イエスがその場所であられたのであり、今日においては、私たちの信仰がその場所なのである。
 それにしても、これらのことは、いったい何のためにあるのだろうか。それは、私たちが神を愛するためである。それも、自分の外にある対象として、外から伺い知ることのできる範囲で愛するのではなく、文字どおり神に自分自身を捧げ尽くすような愛し方である。そのためには、自分という存在の限界を突き破り、見慣れた概念の世界を後にし、見知らぬ意味の砂漠で神に出会い、その懐に飛び込む必要があったのである。そのとき私たちは知るだろう。そここそが、私たちの真の居場所であり、エックハルトが言っていたことこそが、私たちがそこに永遠に留まる方法だということを。
 彼は語る、「それではいったいわたしは神をどのように愛すればよいのだろうか。あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で済みきった一なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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