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2012/04/24

三つの闇について

 「人が群衆をあとにするとき、神は魂の内にみずからを像なく、写しなく与える」とエックハルトは語る。「群衆を後にする」とは、「人間的な思考体系に背を向ける」ということであり、そのとき彼は、「像」すなわちこの世界にある被造物と「写し」すなわちそれらの被造物に関する知識とから解放され、自分自身と神以外の何ものも意識することがなくなる。そして彼はそこで、すべてはこの関係すなわち神と私の関係のためであったのであり、すべてはそれが与えられるために存在したのであることを知るのである。
 そこで、あなたがそのことに気づき、それを意識し始めるにつれて、あなたの認識は、物質的世界の対象から霊的世界の対象へと、すなわち見える世界の対象から見えない世界の対象へ、この世界の光から天上の光へと開かれて行くのである。しかしその場合、私の精神が単一なものであるということのゆえに、そしてその私の認識の移り変わりが私の根本に関わるものであることのゆえに、私はそれら複数の認識に同時には対応することができず、常にどちらか一方だけを認識するということになるのである。
 エックハルトは、この認識の移り変わりを2つではなく、3つの状態として提示する。つまり、私たちが通常、認識を感覚的すなわち肉体的なものと精神的なものの2つに分けるのに対して、さらにもう一つ高次の認識を提示するのである。それは、私たちが持つイメージとはかけ離れており、どのような思考や感覚によっても捉えることのできないものである。しかし、そこには何もないというのではなく、返ってそこでは、すべてのものが無限の密度を保って存在している。それは、まさに「本質的な有」とでもいうべきものであり、天上の世界を反映したものである。というのもそれは、距離も時間もない認識なのだから。そこにあるのは、純粋な「関係」であり、距離と時間を超えてすべてのものが短絡してしまったような世界である。
 そのような高次の認識の世界で生きるために、私たちはどのような努力をしなければならないのだろうか。エックハルトは語る、「私たちは、神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである」と。私たちは、今暮らしているこの世界の中で何かを得たり失ったりする。その現象は、上記の第一の認識すなわち身体的な認識に属する。そして、それらの出来事に関して私たちは、心を楽しませたりまた悲しんだり、またあるときには戦略を巡らしたりする。それはすなわち、第二の認識であるところの精神的な認識に属する。第二の認識は、第一の認識よりも自由である。それは、第一の認識を把握しながらも必ずしもそれに左右されず、返ってそれを克服し、支配する力をさえ持っている。しかしそれにも関わらず、それらはこの時間と距離の世界における出来事である。そしてその背後には、より高次の第三の認識があり、それはもはや何ものにも影響されることはなく、返って第一、第二の認識を支配するものである。
 「一切の被造物のこの『新たな緑の内』で主は『その羊を養おう』とするのである」とエックハルトは語る。私たちは、この『新たな緑の内』に入らなければならない。それは、高い山の上にあるのだが、そこを照らす光は、この世界の光ではない。それは、もはやどのような認識によっても捉えることのできない光である。それゆえそこでは、何かを新たに得たり失ったりするということもない。何かを得たとすれば、それは実は最初からあなたの内にあったものである。また、あなたが何かを知ったとすれば、それは実は最初からあなたの心の内にあったものである。そこでは、時間が超越されているからであり、「得る」とか「知る」とかは、時間の内におけるできごとだからである。
 エックハルトは語る、「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければなない。もし魂が一切の像を超え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ」と。しかし、神は永遠に変わることのないお方だ。そこでこれは、私たちのことを言っているのである。私たちは、自分自身がこの隠された神性の『像』の内へと「変容」し、写され、そこに刻み付けられるのである。つまり、私たちはそこに「植えられる」のである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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