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2012/04/13

無である神について

 「神は近づき難い光の中に住み・・」と聖書に記されている。しかし、たとえ私たちに見えなくとも、神は存在されるのであり、たとえ目に見えなくとも、何らかの方法でそれが知られるのである。それを「神を見る」と表現することもまた許されるであろう。しかし、目でみるのでないからには、そこに何か五感を超えた超肉体的な認識が働いているのを認めないわけにはいかない。そんなことから始めて、段々と神について深く知って行くということはたぶん可能だろう。しかしエックハルトは、「神について知る」ということと「神を知る」ということとを明確に区別する。曰く「神は増大していくような光ではけっしてない。確かに光の増大を通じて神へと到達したということはあるにちがいない。しかし光の増大のただ中では、神の片鱗もうかがうことはできないのである」と。私たちは、自己の獲得する認識の光が増大することによって神に近づく。しかし「神そのものを知ること」は、ただそこからの飛翔によって、すなわち「変容」によってのみ可能なのである。そのとき彼は、何を見ているのだろうか。それは、この世界のものごとの延長では決してない。そこには、大いなる、完全なる不連続があるのである。それゆえそのとき彼の瞳には、いかなるものも映ることはない。それは、超自然的な認識ではあるが、確かに知覚可能なものである。しかし、この「認識」をこの世界における認識の延長線上に置く者は、それを決して知覚することはない。むしろ彼がこの世界のものに対して完全に盲目となったときに、初めてその新しい認識への目が開かれるのである。
 それについて、これから語ってみよう。しかしそれは、たぶんこの世的な分かりやすいものにはなり得ないのである。つまりその認識とは、誤解を恐れずに言えば、たとえば「自由な考え」、「思いつき」のようなものと言えるかもしれない。というのは、その認識は、あなたの外からやって来たものではないからである。もしそれがあなたの外からやって来るなら、あなたはそれを容易に認識し理解できるに違いない。しかし、それはそのようにしてはやって来ない。それは実にあなたの内から来るのであり、それを来たらせるのもまたあなた自身なのである。それを認識と呼ぶことは可能だろうか。それは可能である。というのは、それはあなたからやって来るという点では、あなたの思いつきのように見えるかもしれないが、それを創りだしたのは、厳密にはあなたではないのだから。しかしそれでも、それを来たらせるのは、やはりあなたであり、あなた自身がそれを産むのである。ここにおいては、あなたと神との間には、距離も時間も存在しない。そこでは、神の意志があなたの意志となり、あなたの認識となるために時間やプロセスを必要としないのである。それゆえ、その意志を創造したのは神であるが、その意志を産んだのはあなたであり、その認識を創造したのはあなた自身なのである。そして、そのようになったとき、あなたの周りの諸々の被造物は、すべてあなたにとって「無」となり、神もまたあなたにとってひとつの「無」となる、とエックハルトはこの説教の中で言っているのである。
 それゆえ、そこにはある意味、あなたひとりだけしかいない。もちろん、かつて神に創造されたすべての魂も、神と共に存在していことは間違いないのだが。しかしそれでも、すべての意志が神から発し、あなたの元でひとつの認識となることに関われるのはあなただけなのである。つまり、ここであなたと神との関係に関われるのは、あなたひとりであり、それはまた同時に、キリストによってあなたが相続したすべての被造物との関係をも含んでいるという意味で、それがすべてなのである。
 エックハルトの祈り、「わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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