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2012/04/10

三つの内なる貧しさについて

 エックハルトがここで「三つの貧しさ」と言っているものは、実はむしろ「三つの豊かさ」というべきものである。つまり、地上的にはそれは「貧しさ」なのだが、天的にはそれは「大いなる豊かさ」なのであり、そのように地上的なものと天的なものとは、裏腹な関係になっているのである。そこで、この天的な祝福を認識するためには、地上的な知識や経験によってはかなわないばかりか、それらは返って障害とさえなるのである。
 エックハルトは語る、「わたしたちがこれから話そうとしているこの真理とあなたがたが等しくならなければ、あなたがたがわたしを理解することはけっしてできない」と。天的なものは、すべてそのようなものである。なぜなら、それは「突破」であり、「飛翔」だからである。それは、実に「神さえも越える」ことである。「神」とは、私にとっては、つまり「私の把握する神」、あるいは、せいぜいのところ「私の把握し得る神」、つまり「神概念」でしかない。しかし神ご自身は、私の概念を越えて存在される。しかし、もし私が自己のすべての概念を超えることができれば、その私の前には、もはや超えるべきものは何も残されてはいないのである。神は、私をご自身の御姿に創造されたからであり、この一線を突破した者には、もはや高い低いとか多い少ない、速い遅いというような尺度は存在しない。それらはみな私の概念、すなわち低次の知性の内に含まれるものだからである。しかし、それを超え出て、高次の知性の内へと自己の意識が到達した者にとっては、もはや神との間には、いかなる距離も存在しない。
 そこには、もはや新たに知るべきものは何もない。「知る」ということは、時間の中でのみ必要なことだったのである。そこには、もはや新たに得るものは何もない。「得る」ということは、時間の中でのみ可能なことだったからである。そこで、そこにはもはや新たに意志すべきことは何もない。「意志する」ということは、時間の中でのみ行う価値のあることだったのである。
 エックハルトは語る、「私の永遠なる誕生において、すべてのものは誕生し、わたしはわたし自身とすべてのものとの原因となったのである。もしわたしがそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ、神もまたなかったであろう。神が神であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は神でなかったであろう」と。そのように、そこには始めも終わりもない。そこには、有る無いという区別さえない。私が有ることと神があることは同値であり、そして、その結果として必然的に被造物があるのである。しかし、このことを理解するためには、まず彼がこの真理と等しくなること、すなわち「変容」が必要なのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが今日の話のように生きるよう、またそのことを永遠に経験するよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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大いなる無駄

Biker 以前乗っていたバイクは、次男の事故で大破してしまった。彼は約2ヶ月後に職場に復帰したが、完全な回復には1年という月日が必要であった。家内もバイクには恐れをなし、私もそれっきりバイクに乗る機会がなかったのだが、最近また乗りはじめた。なぜ家内が許してくれたのか、今に至っても皆目分からない。でも、なぜかまた道を走っている。朝から晩まで、机に縛り付けられているような私の仕事には、やはり何かリズムが必要なのだと思う。こうして道を走っていると、「ああ、そうだったのか」という感触を持つことがある。自分がどれだけ凝り固まっていたのか。自分で自分を閉じ込めていたのか。そういうことが何か覚醒のような感触のうちに理解されるように思えるのである。でも、なにもバイクに乗らなくてもいいんじゃないか。そんな風にも思う。でも、他にどんな方法があるのか、今の私には分からない。もちろん、バイクが無くても、生きて行けるだろう。そんなお金があったら、何か他に有益なことができるかもしれない。環境にも悪いし、第一危険であり、事故を起こしたら家族にも教会にも会社にも迷惑がかかる。でも、神様は、今のところ、「だめ!」とは言われていないように思える。だって、こんな風に道を走れるようになる可能性は、あまり無かったように思えるし、返って障害の方がはるかに多かったように思えるから。でも、事故には気をつけよう。決して無理をするのはやめよう。もう58にもなろうとしているのだから。

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