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2012/04/04

魂の内にある火花について

 エックハルトは語る、「地はその本性に従って、自分が天から隔たっていて、等しいものではないことを感じとり、天を避けて最も低い場所にまで身をひいたのであり、天に近づかないように地は不動なのである」と。
 根本的には、この世界には等しいものは一つとして存在せず、互いに孤立していて、すべてのものは、互いに異なっている。そして、それら相互の違いにもまして、それらは天上の事物から計り知れないほど隔たっていて、回復の可能性を持っていないほどなのである。しかし、自らの内に何の可能性も持たないそれら被造物に天が触れることにより、そこに一つの可能性が付与されるのである。天は、すべての可能性の宝庫だからである。しかし、だからと言って地が天の様に変質するというのではなく、地は地のままに天的な存在とされるのである。ここにエックハルト独自の福音があり、それが「変容」の意味なのである。さらに彼は語る、「自らの内で、神の内で、そしてすべての被造物の内で自分自身を無にした人も全く同じである」と。変容のためには、人はすべてのことを諦める必要がある。彼がすべての可能性を捨て去り、そしてついに、天とは異なっているという属性さえももはや捨て去ったとき、そこに明らかになることがある。つまり、その相違を作り出していたのは、実は彼自身であったことが。そして、彼がその先天的な無意識の努力を断念するやいなや、神の元から一筋の光がやってきて彼を包み、神の御姿に変容させるということが起こり得るのである。
 それはどのようにして起こるのか。それは、彼の魂と神との同等性によるとエックハルトは言う。すべてのものは、神の元から流出し来たった。それらは、神から流出したとき、一つの属性を受け取った。「彼である」ということを。その個別性は、神が彼を愛し、彼が神を愛するために必要であった。しかし、ひとたび愛した者たちは、今度は一つになろうと願う。神に愛され、神を愛した者は、神のもとへと帰ることを願うのである。そしてこれは、まさに「彼である」ことを捨てること、自分を捨てることである。しかしそれは再び、犠牲的精神などではない。犠牲的精神は、返って自分自身に執着するようなものだからである。そこで、神の元に帰ろうと願う者は、自分と共にまた全被造物をも捨て去って、もはや省みないことが必要なのである。
 そのとき彼は、初めて神に造られたままの彼の姿に回帰し、神の内にいること、すなわち自分が変容したことを知るのである。それは、どのような状態なのか。エックハルトによれば、そのとき、神を見ている彼の目は、彼を見ている神の目であり、両者は同じひとつの働き、ひとつの認識、ひとつの愛である。どのようにして、そうなったのか。どのようにしてということはない。強いて言えば、最初からそうだったのであり、彼だけがそれを知らなかったのである。それではそれは、どのようにして知られたのか。変容を通してそれが彼に認識されたのであり、彼の探求によったのではなかったのである。そこで、切実なこととして、この「変容」が必然的なものであるか否かが問題となる。それは、ある意味で必然的に起こる。神の愛が必然的なものだからである。しかし一方で、それは偶然的なものでもある。それが神の主権に掛かっているからである。そしてそれは、再び私たちの自由意志にも掛かっているのである。これら、愛と主権と自由意志の三つを貫く一つの光が存在する。それは、これら三つのどれにも傾くことなく、あくまで中立で不動なものである。そして、この不動性は、単に動かされることがないというだけでなく、すべての可能性がそこから生まれるところの躍動性を持っているのである。
 エックハルトは祈る、「この根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純な静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命がうけとられるのである。わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理が私たちを助けてくれますように。アーメン」。

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