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2012/03/30

神が魂の内に子を生むということについて

 「神は、魂が命あるものになるために、その子を魂の内に生む」とエックハルトは言う。「神の働きは、神の子を生むということにある。神はその子を常に生みつづける。この誕生の内ですべての事物が流れ出てくるのであり、神はその際神のすべての力を費やすほど、それほど大きな喜びをこの誕生に対して抱いているのである」と。「生むこと」は、人にとっても神秘的な働きである。それは、自分と同じものを創出することであり、自分の能力を越えているのである。それゆえ「生むこと」は、もはや人が自力でなすことではなく、神の創造の業が彼の内で働いているのである。これを理解した者は、また次のことをも理解するであろう。つまり、神がその子を魂の内に生むということは、すなわち、神の業が魂の内に働いているということである。「魂は神をまさに自分自身から生むのである。このことは、魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生むということによってなされる。そこでは魂は神の似像である」とエックハルトは語る。つまり、「神がその子を魂の内に生む」と言っても、それは実は、「魂が彼の内に働く神の創造の力によって、神をまさに自分自身から生む」ということにほかならないのであり、それ以外のものではないのである。
 エックハルトは、ルカによる福音書の「一人息子に死なれた寡婦」の話を引用して、「この寡婦とは、魂のことである。彼女が知性の内で生きなかったからこそ夫は死に、彼女は寡婦となったのである」と言う。この「知性の内で生きる」とは、どういうことなのだろうか。それは、この世界の中を生きながらも、様々な事柄に心を煩わせることなく、不断に神の御心を求めて従うことであり、そのときにだけ聖霊は贈られるのである。また彼は語る、「寡婦に欠けているものは、生む能力が死んでいるということである。それゆえ実りもまたないのである」と。しかし、もし魂が知性の内で生きるなら、彼女は再び生む能力を回復し、父なる神と共に豊かに生むものとなる。何を生むのだろうか。自分の内に、神の御子を生むのである。その目的は、それすなわち「生むこと」、すなわち「彼の内に働く神の業」により、精神において父なる神の御姿に変えられることである。魂は父なる神と共に「生む」という一つの働き、それも天地創造にも関わるような働きをするとき、神の御姿に変えられているのである。
 この「変容」は、実に各瞬間毎に起こる。この世界においては、目標とその実現の間には、時間というギャップが存在する。しかし精神の世界には、そのような遅延は存在しない。考えたことがそのままその人にとっての現実となるのである。そこで、この世界の出来事は、来たるべき永遠の世界、すなわち知性的世界における「変容」の予行演習なのである。
 エックハルトか祈る、「主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けてくださるように。アーメン」

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