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2012/02/20

捨て去るということの意味について

 エックハルトが捨て去ることを勧めるものは、一言で言えば「我欲」と言えるだろう。そしてその目的は、「自由になること」なのである。しかし一般には、「我欲」と「自由」は、矛盾するものと見なされてはいない。返って「我欲を実現すること」が自由と思われているのである。しかし、それがどのように高尚な理想や向上への意志であったとしても、その実現のために彼は、その状態を維持しようとするあまり、無意識に自己防衛に努力せざるを得ず、それにより、自分ではないものに心が奪われ、そのものの奴隷となってしまうのである。
 そこで、それらから解放される道は、それらのすべてを完全に捨て去ることしかないのである。しかしエックハルトによれば、この「捨て去る」という一見消極的な方法こそが、実は真理へ到達するためのもっとも協力かつ積極的な方法なのである。なぜなら、捨て去ることにより彼は、本来の彼自身となるからである。というのも、彼は神の似姿に創造された者であり、それゆえ彼に後から着け加わるべきものは、初めから何もなかったのだからである。
 それでは、取り去られなければならないものとは何なのか。まず第一に捨て去るべきものは、「生きる理由」である。「愛には、なぜといういかなる理由もない」とエックハルトは言う。私たちは、神以外のために生きるべきではないが、だからと言って、神のために何か生きる理由を新たに創り出せるわけでもないからである。第二に捨て去るべきものは、自分自身とすべての被造物である。これはつまり、いわば「自己の存在する理由」である。私は、何かの理由があるから存在しているのではなく、何も理由がなくても、存在すべきなのであり、それがあなたという存在なのである。神は、何かの目的を達成する手段としてあなたを創造したのではなく、ただあなたを愛するために造られた。つまり、あなた自体が神の目的なのである。第三には、「義であり、真理」である。あなたは、それを捜し求めてはならない。あなたは、むしろそれを、あなたの内側に見出さなければならないのである。
 それでは、そのようにあなたがすべてを捨て去った後に、あなたに残されるものは、いったい何だろうか。しかし実は、残されるのではなく、もたらされるのである。しかしそれが、あまりに大きく、あなたはその全体を把握することさえできないほどである。エックハルトは語る、「それは神的性質に属し、それ自身において一であり、いかなるものとも似ていない。それはひとつの見知らぬ世界であり、ひとつの沙漠であり、名を持つというよりも、むしろ名のなきものであり、認識されるというよりも、むしろ認識されざるものである。あなたが自分自身をほんの一瞬でもいや、さらに短い間でも、無にすることができれば、そのあるものがそっくりそのままあなたのものとなるであろう」と。この「名のなきもの」こそ、あなたの内に来た「全宇宙」であり、あなたはそれをあなた自身として認識し、それによって「変容」しなければならないのである。エックハルトは語る、「それは時間の内にも、永遠のうちにもなく、外も内もないあるものである。このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深淵とを現し出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである」と。そのときあなたは、あなた自身であり、また同時に全宇宙でもある。創造された者であり、また同時に創造した者でもある。そして、そこには依然としてあなたというものが存在する。それは、全体としてのあなたからは、「汝」として認識されるが、一方全体としてのあなた自身は、「われ」と言う。エックハルトは語る、「我と汝ら、この言葉は一性を指し示している」と。そのように、本来、すせては一つなのであり、一つとして捉えられねばならないものだったのであり、そのようにして初めて正しく認識
できるような構造をしているのである。
 彼は祈る、「わたしたちがまさにこの一性でありますよう、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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