« 2012年1月28日 | トップページ | 2012年2月11日 »

2012/02/08

神の子の誕生について

 「神の子の誕生」とエックハルトは言う。そして、この「神の子」とは、私たちをも指して言っているのである。「私たちは、永遠の内で神が生む神の独り子でなくてはならない」と彼は言う。私が生まれたのは、いつのことだったろうか。しかしそれは実は、過去も未来もない「永遠の内」における出来事なのである。だからそれは、天地創造の前のことでもあり、いまこのときのことでもある。そして、永遠の内では、この二つの時は、互いに限りなく近いのである。
 「初めに・・」と聖書は語り始める。ヨハネの福音書にも「初めに」とある。それらが私たちに向けて語られたのは、それが私たちに関わることだからである。なぜなら、それらは、永遠に関わることであるゆえに、永遠の時を越えて今私たちが生きるこの一瞬とつながっているのであり、エックハルトによれば、「われわれは、永遠の秘蔵性の隠された闇から父が永遠の内で生んだ独り子であると同時に、すべての純粋さの満ちた原初の純粋性という始原の内に依然としてとどまりつづけている」のである。永遠の世界、すなわち精神的な世界には、エントロピーの法則などはない。それゆえ、そこでは人は歳をとるということもなく、朽ち果てることもない。そこは、原初の純粋性のままなのである。しかし、私たちはそこから歩み出てきてしまった。そして、自由意志を身につけた。しかし、原初の純粋性は、この自由意志とは無縁である。そこには、ただ父なる神の至高の意志だけがある。私たちがそこへ戻りたければ、自分の意志を捨てなければならない。そして、私たちが自分の意志を捨てるとき、私たちは自分であることをやめなければならない。しかし、一つだけ方法がある。それは、神の独り子との婚姻である。神はそのことを永遠の昔から定めておられた。すなわち私たちは、御子の花嫁として神と一体になるのであり、そのとき神の意志は私たちの意志となるのである。「婚姻」は受動的な同化、「生むこと」は能動的な同化であり、それらは共に霊的な事柄のこの世における雛形なのである。そこでそれらの目的は、父と同じように私たちが霊的に生むものとなるためであり、そのようにして私たちは、自分を生んだ神を再び霊的に生むことになるのである。そしてそのとき、私たちの内にまた神の御子が誕生する。この循環は、一つの混沌である。それは、何かを認識しようという方向性ではなく、その反対に相手に自分を完全に与え尽くすという方向であり、それによって獲得される新たな認識は何もない。それは、むしろ自ら体現することによる同化であり、その体現するもの自体に自ら成ることなのである。しかし、そのものになってしまえば、もはやそのものを認識することはない。そのように、原初の純粋性においては、認識されるものは何もない。そこでは、すべてのものは一だからである。そして、そこは同時にすべてのものの終わりでもある。エックハルトは語る、「なぜならば、最初のはじまりは、最後の終わりのためにあるからである。まことに、神が最初のはじまりである場では決して神は安らぐことはない。神が安らぐのは、神がすべての有の終りであり休息である場においてである」と。いったいこの「はじまり」と「終わり」とは、どのような関係にあるのか。その秘密は、「生むこと」の中にある。神は、世の初めに、すべてのものを生み出された。その目的は、神から生まれた私たちが、やがて霊的に神を生むものとなるためである。そして「生むこと」の目的は、その対象を身近に体現し、その対象と真に一つとなるためである。そのように私たちは、神から出て、再び神へと帰りゆくのであり、それにより父なる神もまた休息に入るのである。エックハルトは語る、「この場合休息とは、この有があたかも無に帰するようになるのではなく、むしろ、この最後の終わりにあるものとして。その最高の完全さに従い、そこでこの有が完成することをいうのである」と。父から生まれたものは、自ら父を生むことにより真に父の元に帰る。しかしそこで新たに認識されるものは何もない。それではいったいどこが違うのか、何も起こらなかったのと。いや、確かに違うのである。しかしそれは、なかなか表現し難い。というのも、そこには区別というものがないのだから。そして、この区別がないということこそが、それが始まりであり、また終わりであることを表しているのである。そして永遠のうちでは、この始まりと終わりとは、実は始めから一つのことなのであり、一つの混沌なのである。
 エックハルトは語る、「この最後の終りとは何であるのか。それは永遠なる神性の隠された闇である。そこは認識されることがない。認識されることはこれまでにけっしてなかったし、またこれからもけっしてないであろう。そこでは神は、自分自身の内で認識されずにとどまり、永遠なる父の光がそこでは永久に射し込んでいるが、しかしその闇がその光をとらえることはついにない。わたしたちがこの審理にいたりつくよう、わたしが語ったこの審理が、わたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年1月28日 | トップページ | 2012年2月11日 »