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2012/01/19

自分の魂を憎むということについて

 「この死すべき命にあって、その魂をこの世にある姿で愛する人は、永遠なる命の内にある魂を失う人である。逆に、魂をこの世の死すべきものとして憎む人は、魂を永遠の生のために護る人である」とエックハルトは語る。「この世を愛すること」と「自分を愛すること」という二つのこと、それらが同じことであるような愛があり、また、異なることであるような愛がある。前者は、いわゆる低い愛「エロース」であり、後者が高い愛「アガペー」である。神は、この世を愛し、ご自身の愛する独り子を十字架に架けられた。ここには、自分を捨てる「無私の愛」が示されている。しかし、さらに高い愛の認識においては、上記の二つのことは再び一致する。つまり、ここにおいては、神が世を愛するのは、それをご自身を愛するように愛するのである。そして、私たちに対しても、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と言われるのである。
 それではなぜ、エックハルトは私たちに、魂を憎まなければならないと言うのか。それは、私たちが認識する魂の姿は、この世の姿であり、魂の本当の姿ではないからである。それゆえ、その魂の姿を愛する者は、実は魂を愛していることにはならず、返ってそれを憎んでいることにさえなるのである。そして、この世において魂を憎むことこそが、この世界と自分とを等しく愛するところの高い愛なのである。というのは、魂はこの世界と来るべき永遠の世界にまたがる存在なのであり、その真の姿は、この世の認識力では把握できないものだからである。そしてまた、その本来の姿でないものを愛することはまた、この世のすべてを間違った形態において愛することにもなり、それは再び、魂を正しく愛することにはならないのである。それゆえ、魂を憎むことこそがそれを愛して、永遠に存続させる道なのだとエックハルトは言うのである。
 それでは、魂を憎むとは、いったいどういうことなのか。それは一見、このブログカテゴリーのテーマである「変容」とは逆のことのようにも思えるのであるが。つまり、変容するためには、魂への理解が不可欠のように思えるのだが、実はそこにこそ危険が存在するのである。エックハルトの理解する「魂」は、認識することが不可能なものであり、それを認識しようとか、認識したという人々、また甚だしくは、それを感じたり、それを持ってして霊的な世界を体験しようというようなこと等々は、正に神が仕掛けた偽りの罠、錯覚の罠に捕らえられることになるのであり、神はそのようにして心の悪しき者たちを裁かれるのである。
 そこでこの説教を語るエックハルトの意図は、私たちの進むべきでない方向を明示すると共に、それを避けるための方法を示し、それらを持ってして、変容の方向性を提示するためである。つまり、私たちは変容を願うのであるが、その方法は、あくまで神の恩寵によるのであり、私たちがそれぞれの方法でそれを実現しようとしてはならないのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちの愛する主よ、わたしたちが魂を永遠の命のために護るよう、わたしたちの魂がまとう装いのもとでは、わたしたちが、わたしたちの魂を憎むようになることを。そのために神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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