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2012/01/14

神のために神を捨て去るということについて

 「神のために神を捨て去る」とは、なんという矛盾した表現だろうか。しかし、その真の意味は、「自分の持っている辺境な神概念を捨てる」ということなのである。つまり、神を純粋に自分の外の対象として愛すること、偏見なく純粋に愛することの追求である。そしてエックハルトによれば、それは正に対象を捨て去り、もはやそれに執着しないことにより実現されるのである。それゆえこの愛は、自己の利益を求めない無私の愛である。しかし、この世界の対象にあっては、愛は執着を要求する。相手に慕われることを求めるのである。しかし、愛の対象が神である場合には、神は私たちに執着を要求しない。返って認識することを要求するのである。そして、この認識の目的は、自己の変革、すなわち変容なのである。というのは、神のすべてが善であり義であるゆえに、私たちから神への行為はあり得ず、ただ神から私たちへの良き行為があり得るのみだからである。そして、私たちは認識した良きことをそのまま実行しなければならない。そしてそれが神を愛するということなのである。
 エックハルトは語る、「神の永遠なる言をわたしたちが聞こうとするのを、三つのことが妨げる。第一は身体性であり、第二には多数性であり、第三には時間性である。人がもしこれらの三つのことを踏み越えて行ったならば、その人は永遠の内に住み、精神の内に住み、一性の内に、砂漠の内に住むこととなり、そこで永遠なる言を聞くこととなろう」と。私たちは、神を得ようと探し求める。しかし、神は探し出して獲得するようなものではない。神は、すでに私たちの内におられるのであるから。そこで、私たちが次になすべきことは「変容」すなわち自己の変革なのであり、上の三つのものの超克なのである。それは、「神を捨てる」ことすなわち「神を得ようとする自分を捨てる」ことである。そしてそのとき私たちは、真に変容への可能性を獲得するのである。
 それでは、この「変容」とは何であろうか。それはどのようにして実現されるのだろうか。まずそれは、自分の努力ではなく、神からのアプローチによるのである。それはいつ来るのだろうか。エックハルトによれば、まず私たちが自分を正しく認識することが必要である。自分が神からどのようなものとして創造されたのかということに関する認識である。それは、イエス・キリストの十字架を仰ぐことにより可能となる。天の父なる神が私たちをどれほど愛しておられるか、それは私たちがご自身の子であるからであるということがそこに示されている。そして、それを絶対的な事実として受け取るとき、一見それと矛盾するような啓示、例えば旧約聖書における悲惨な出来事の数々は、神の側の対応の問題というよりもむしろ私たち受け入れ側の問題であったことが明らかになる。それは、私たちがいかに神に近いものとして創造されたかということを示しているのである。それゆえ神は、御自身の実の子を扱うように人を扱われたのである。そのことは、旧約聖書のダビデやソロモンの息子たちとの関係や主イエスが語った放蕩息子の話に見ることができる。そしてエックハルトによれば、人がそのことを認識したとき、その人は神の独り子となる。というのも、あなたが神の独り子となるために必要なものすべては、神からすでにあなたに与えられているからである。それゆえそのために神の側で成すべきことはもはや何もない。あるのは、ただあなたの側における認識だけなのである。
 それをあなたが理解したとき、あなたは実質的に、名実ともに神の独り子となるのである。そしてエックハルトによれば、ひとたびそうなってしまえば、あとのことは自動的に生起する。神の愛が神ご自身を制止することを許さず、神はあなたを捕らえようと、急いでやって来られる。そしてあなたは、神の恩寵により、変容するのである。この世界において神を愛し、神の栄光を表す働きをすることができるために、そしてあなたが神にいつまでも従順で貞節を守り、どこまでも忠誠を尽くせるように。あらゆる世の誘惑は、もはやあなたにとって何の力も持たない。あなたが神以外のすべてを捨て去り、そして最後にあなたの神概念さえも捨て去ったからである。それゆえ、あなたを責め苛むものはもはや存在しない。そして、あなたを縛っていた罪の力もまた消えてしまったのであり、あなたがこのことを理解したときに、あなたは完全に罪から解放され、神の一人子へと変容するのである。

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