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2011/12/29

それぞれの親切

 母は病院で、「ここの人はみんな親切だよ。本当に良かった」と言っていた。昨日、病室に行き、母が水を飲みたいと言ったので、そこにあった吸い飲みで2口ほど飲ませた。あとでそのことをそこに来た看護士に知らせたら、それは危険なことだと言った。今の母は、水でさえ喉に詰まらせてしまう危険があるという。しかし、例のコミュニケーションノートには、今日は水を2口飲んだとか、お粥を2口食べたとか書かれていた。また、栄養士は私に電話で、何でも好きなものを好きなときに食べさせて良いと言っていた。それから母の寝かせ方や、ベッドの倒し方、足のさすり方等々、人によってみんな言うことが違うようだ。たぶん、みんなそれぞれに根拠があってやっているのだろう。だから、みな正しいのだと思う。それぞれが、自分の信念を持って母の介護をしていてくれるようなので、私も何も言わず、それぞれのときにそれぞれの方法で対処して行くしかない。母の容態も刻一刻と変わって行くようだし。昨夜は、病室に泊まったが、寝ている母に、「心配しなくていいよ。イエス様がいつもそばにいてくれるから。おばあちゃんを守ってくれるのは、イエス様だからね。それを忘れないでね」と諭した。それから、神様に母のことをお願いした。神様は神様の方法で、母のことを守り導いてくださるに違いない。それぞれにそれぞれの方法で母に尽くしているようだが、やっぱり神様の方法が一番頼りになり、平安があるのだと思った。

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純然たる無である被造物について

 「すべての被造物はひとつの純然たる無である」とエックハルトは語る。つまり、神はこの世界と断絶しているのであり、この世界のどんなものによっても、またこの世界におけるどのような努力によっても、私たちは神を知ることはできないというのである。それでは、いったいどうすれば良いというのだろうか。エックハルトによれば、「わたしたちが神に対してすべてをさらすならば、神はわたしたちにもまた神の持っているすべてを明かしてくれるし、神は差し出すことのできる一切のもののうち何ひとつとして、知恵であろうと、真理であろうと、秘密であろうと、神性であろうと、なんであろうと真理のうちでわたしたちにけっして覆い隠すことがない」と言う。それでは、私たちは神に対して、何か隠しているというのだろうか。むろん、神は全能であり、何でもお見通しなので、私たちが神の目に隠し仰せるものはなにもない。しかし、神が望んでおられるのは、私たちがそのことをいつも自覚することなのである。と言うのは、私たちが悪いことをあえて行ってしまうときや良いことをあえて行わないときには、それらのことを自分の良心に隠しているのであり、それはつまり、神に隠していることになるのである。しかし、もし隠さないならば、そして、この「隠さない」ということの真の意味を知ることを得るならば、私たちは、良心によって、すなわち神の御心の内を歩むことになろう。そのとき、私たちは、また自分がすべてのことを知っていることを自覚するのである。しかし、良心も間違うことや、自分勝手になることや、人間ゆえに見当違いをすることがあるのではないか。それに対しては、どのようにすぐれた人の業も神の前では愚かであるに過ぎず、まして自分を誇ったり、神からの栄誉を得るには値しないと言うことができる。そのことを知った魂の内へ神は御自身の一人子を生む。私たちが完成された者となるためである。
 「純然たる無である被造物」とエックハルトは語る。この世界のすべてが無であるとしたら、それらはいったい何のためにあるのか。それらは、従わせるため、征服するためにあるのであり、私たちがそれらから学んだり喜びを受けるためにあるのではない。そういう意味において、すべての被造物は無であると言うのである。しかし、もし私たちがそれらのものから離れ、神のみに頼り、神のみを愛し、神の思いを自分の思いとし、ただ神の御心を行うことを願い、そうして後にこの世界に帰還するならば、すべての被造物は、真に神から私たちに与えられた賜物となるのである。神は、すべてのものを御子に与えられた。そして私たちは、御子と共にそれらを相続するのである。
 エックハルトは祈る、「時が満ちたとき、そのとき恩寵が誕生したのである。すべての事物がわたしたちにあって完成され、神的恩寵がわたしたちの内で生まれるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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