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2011/12/27

母の命

 今日、仕事を終えて病院へ直行すると、母はめずらしく目を開いていた。私を認めても、「ああ。。」と言った感じで、それほど驚きもしなかったが、私が手を握ると、いつもと違い、かすかに握り返してきたように感じた。そして、少し大きな声で、何かを語った。「家に帰りたい」と言ったように思った。そして、「手を引いてくれるかい」と聞こえた。でも、すぐに「やっぱり、いいよ」と言ったように聞こえた。母は、酸素を継続的に吸っている状態なので、私は、苦笑いするだけであった。そのとき、初めて、神への怒りのようなものを感じた。人はなぜ皆、死ななければならないのか。そして、なぜ母が日に日に衰弱の一途をたどっているのか。
 病院からの帰り道で考えた、「でも、みんな最後には死ぬのだ」と。そして、それこそが「死」の本質なのだと。しかし、それで終わりではないのだと。でも、母は、確実に天国へ行けるのだろうか。年老いてから信仰に入ったため、聖書の言葉もほとんど知らない母が。でも、母は主イエスを救い主と告白し、洗礼を受けている。そこで、聖書によれば、天国へ行くことになっているのである。それを疑ってはいけないと改めて思った。そうしたら、元気なころの母の面影が心に帰ってきた。天国へ行くのに、高尚な知識や学問は無用だと思う。本当に、本当に、主イエスを救い主と受け入れること、それを公に言い表すことがすべてなのに違いない。

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神の根底にまで究めゆく力について

 エックハルトは、この説教の冒頭で、「彼はその生涯において心の中で義なる者と認められ、彼は神を彼の生涯において満足させた」という聖書外典の言葉を引用する。「神を満足させ」るためには、まず神について良く知らなければならない。神がどのようなお方かを知らなければ神を喜ばせることはできないであろう。しかしエックハルトによれば、それも可能なのである。彼は語る、「魂が魂自身であるよりも、神は魂にさらに近い。まことに、神と魂との近さとは両者の区別も見出せないほどのものである」と。しかし、魂がいかに神に近くとも、魂は神ではない。そして、この「神ではない」ということこそが、他のどのような相違にも勝る相違なのである。しかし、もし魂が、この「神ではない」ということを乗り越えられるなら、彼は神を知ることができるだろう。そして、それを乗り越える方法をエックハルトは追求するのである。それは、端的に言えば自分を捨てることである。彼によれば「神ではない」ということは、魂の個別性(個体性)に由来するからである。個体性とは、「一つのものは、同時に他のものではない」ということであり、それは、正に自分自身に由来することである。神は、すべてのものに等しく与える。しかし、それぞれの個体は、その等しく与えられたものを、自らの裁量で異なる形態として現し出すのである。もちろんすべてのものは、神の創造の業であり、魂自体も造られたものであるが、その個体性は永遠に続く。そしてエックハルトは、それゆえそれはまた、永遠の昔から神の心の内にあったはずだというのである。そしてまた聖書には、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、ただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」とある。つまり魂には、この個別性を携えながらも、それを克服することが求められているのである。この言うなれば、「彼であることを放棄した彼」は、依然として彼なのであるが、その彼は、神の御心のみを行う存在であり、自己の個体性を行使しない彼である。そして、エックハルトが言うように、神が彼を、彼の個体性以外はご自身と同じに創造したとするならば、そのとき彼は、正に神と同じ存在であることになろう。それはまた、主イエスが「あなたがたは、神々である」と言われたことでもあり、またパウロが「私たちは、主の御姿に変えられて行く」と言ったことなのである。
 それは、何のためなのか。エックハルトによれば、「このような人は神を自分の固有な有において、自分の固有な一性において、自分の固有な現在において、自分の固有な真理において、つかむのである」と。つまり、自分以外のものについて、あれこれ考えたり、探し求める者は、自己の個体性において考察するのであり、本質との間の壁を越えることはできない。本質は、個体性を越えたところにあるのであり、そのためには、自己を完全に放棄する必要があるのである。もちろん、自己を放棄して、対象と合一することには、大きな危険を伴う。それゆえその対象が神であることに注意する必要がある。そうでないと悪魔に魂を奪われるかも知れないから。しかし、正しくアプローチする限り、あまり恐れるには及ばない。そして、正しいアプローチとは、ただ自己を放棄することであり、それ以上に進まないことである。そうすれば、神の方からアプローチが与えられるだろう。エックハルトは語る、「義なる人は神とひとつである。等しさということは愛されるということである。愛の愛するものは常に等しきものである。それゆえに神は義なる人を自分自身と等しいものとして愛するのである」と。彼は祈る、「わたしたちが自分を、知性の日と時とにおいて、知性の日において、義の日において、そして浄福の日において、内面に見出すよう、父と子と聖霊が助けてくださるように。アーメン」。

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