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2011/12/14

知性と意志とについて

 知性と意志とは、魂の最も高い構成要素である。しかし、それらのどちらがより高い力、つまりより神の近くに迫ることのできる力なのだろうか。エックハルトによれば、知性が神を把握する場合、神を像として自分すなわち知性の内に取り込み、そのようにして神を自己の内部にあるような姿でつかむのであり、そこにどうしても神に迫る上での限界がある。一方意志はといえば、それはもはや神をそれ以上把握しようとはせず、返って近づこうとするのであり、その分神をそれ自身のもとにあるがままの姿でつかもうとするのだが、それでもその認識には、善という覆いがかかっていると言う。つまり、知性にしろ意志にしろ、神に所詮自己流の仕方で迫ろうとするのであり、それが自己というものを持つ存在の宿命的な限界なのである。そこにあるのは、神と人との質的な相違なのであり、人が人である限り、もうそれ以上どうしようもないことにも思える。
 しかし、エックハルトは語る、「神は、すべての被造物の内にある。それらが有を持つ限り。しかし一方でそれらを超えているのである。神がすべての被造物の内にあるというまさにそのことによって、神はそれらを超えているのである」と。これがまさに神と人との関係なのであり、これ以外の関係ではないのである。すなわち神は、どの人の心の内にも完全な形で存在されるのだが、それは、包含されるという形ではなく、逆に超越するという形においてなのである。
 つまり、ここに意識の転換が必要なのだが、エックハルトによれば、理解でなく、把握でもなく、愛でもない、それ以上のあるアプローチが存在し得るのである。なぜなら、神を理解するということには、上で述べたようにおのずと限界がある。また、彼が言うように、「愛は合一をもたらさない」。「愛」それ自体は、完全なものであり、私たちが持たなければならないものである。しかし、愛を追求している限り、私たちは従来の姿に留まったままである。たしかに愛は、自己を犠牲にする。しかしそれは、自分を捨てるまでのことであって、自分を捨てた後は、もうすでに愛を越えてしまっているのである。それでは、エックハルトが語る神へのさらに高いアプローチとは、いったい何なのだろうか。彼は語る、「『霧のただなかにおいて明けの明星のように』。わたしはこの『のように』という語に注目する。これは『ちょうど~のように』という意味である。これを子供たちは学校で『譬えことば』と名づけている。わたしがすべての説教の中で目指したものがこれである」と。「譬えことば」だって?、それは言わば、作り物(イミテーション)という意味だろうか。確かにそうかもしれない。しかしそれは、神が与えておられる最大限の可能性の中で、理解せず、愛せず、それらを超えて、直接的に神に近づくことなのである。そのようになることは、はたして可能なのだろうか。それは、確かに可能だろう、神が上で述べたような、完全な形で私たち一人一人の内におられるのなら、それは、単なるイミテーション以上の新しい意味を持つのである。そしてそれは、これまで述べたことから、私たちから神への、有り得べきもっとも完全な接近なのであり、変容の形態なのである。

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