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2011/12/12

死してある生き方について

 アダムの堕罪により、死が全人類に入り込んだ。それは、歴史の始まりにおけることであり、死はそれ以来人類を支配してきた。これまで誰一人として、死を免れた者はなく、死はそれほど根強く、人類にとって最悪のものであった。しかし、キリストの死は、まったく異なっていた。彼は、死から甦った。彼は、自らの死によって、死に打ち勝った。そして今日、キリストを信じる人は、彼と共に死に勝利する。それゆえ、死はもはや最悪のものではない。そればかりか、エックハルトによれば、死は新しい命への入り口なのである。
 「死してある生き方」とエックハルト語る。「死は、彼らに一つの有を与える」と彼は言う。どのようにしてであろうか。それは、「死」すなわち、肉体的なものからの離脱、自分自身からの離脱は、そのまま神への方向性だということである。この意味で、肉体は邪魔物ではなく、むしろ私たちを神へと連れていく案内係りなのである。「あなたが自分の被造物としての有のあり方に従ってあなた自身から離れ・・」とエックハルトは語る。肉体があればこそ、それから離れて神に立ち帰るという方向性が与えられるのであり、肉体がなければ、どのような方向性も与えられようがないのである。そして、魂が神へと帰り行くための力こそが知性と意志なのである。エックハルトは語る、「魂が身体から離れれば、魂は知性も意志も持つことはない。魂は一なるものであり、そうすれば魂が神へと帰り行くことを可能にする力を魂はみつけだすこともできなくなるであろう」と。そこで彼が言うところの「死してある生き方」とは、文字通り、生きながら死んでいるかのように生きることであり、まさに神の方向へと向かう生き方なのである。
 そのためには、どうすれば良いのだろうか。まず、妨げとなるものを自分の周りから取り除くことである。それらは、時間性と多数性、すなわち対立関係である。それらは常に、あなたが有を失う方向へと働く。つまり、時間はたえず過ぎ去ることにより、以前の状態と対立し、多数性においては、各個は互いに他と対立し、そのようにして自己の有を喪失するのである。この「有」とは、難解な概念であるが、それはいわば無からの背反である。私たちは、何かを持っていると思っているが、それらの多くは、やがて失われ、無に帰する運命にある。私たちのこの世における命もまたそうである。「有」とは、この世には無い概念であり、被造物から離れ去る方向に見いだされるものである。「神はわたしたちを命よりすぐれたひとつの有の内に移すことをめざしているのである。わたしたちの命がそのうちで生きるひとつの有、そのひとつの有の内でわたしたちの命もひとつの有となるのである。ひとつのよりよき有が与えられるように、人は喜んで自らを死に渡し、死にゆかねばならないのである」とエックハルトは語る。
 これらのことは、聖書が語る古い正統信仰的な概念を指示している。すなわち、人生は一度きりしかなく、人は各々その行いによって裁かれるということである。そしてエックハルトにおいては、それらはまた同時に、極度に内面的な事柄でもあるのである。すなわち彼は語る、「魂は、ばらまかれ、運び出されたものを集めるために身体の内で純化されるのである。五感によって運び出されたものが、再び魂の内へと帰りくるとき、魂は一なる力を持つのである」と。それは、統一へと向かい、神との合一へと向かっている。それは、この世の生において死んでいるかのように生きることを要求するが、また一方で、この世を徹頭徹尾真剣に生きることを要求するのであり、そのようにしてそれは「変容」への方向性を指し示しているのである。

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