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2011/12/05

介護の限界

 母の容態は、日に日に変わり行く。良い方向ではなく、その反対に。今日は、会社の帰りに病院へ直行した。病室へ急ぐと、ベッドはもぬけの殻であった。まだ7時だったので、食堂へ行ってみると、果たしてそこに座っていた。夕飯の膳を前に、ほんの少し箸をつけただけのようだった。私の顔を見るなり、びっくりしたように、「今日は大変だった」と言った。「なにが大変だったの」と聞くと、この病院がつぶれそうだと言う。「どうして?」と聞くと、病室を何度も変えられるので、この病院、大丈夫か心配になったと言う。それからさらに話を聞いてみると、何度も同じ夢を見ていやだとも言う。「どんな夢?」と聞くと、「1階へ行ったり、2階へ行ったり。それから、病室に移ったり。みんな一人づついなくなったり。」へんなことを言うなあと思って話を聞いていた。そのうち、ナースステーションで記帳している私に、作業療法師が話しかけた。今日は、母を気分転換に1階へ連れて行って、リハビリをしたということであった。私は、「ははあ、母は、介護の人たちの良かれと思ってしてくれることに、心が着いていけないのだな」と思った。考えてみれば、寝ていたのをいきなり起こされて、車椅子に乗せられて、2階から1階へ降ろされたのでは、寝ぼけて頭が混乱しても不思議ではない。なにしろ母は病人なのだから。それに日に何本もの点滴を打っているし、酸素も常時吸っている状態なのだから。それにしても、介護の人は、もっとゆっくり母の話を親身になって聞いてくれれば良いのにと思った。でも、彼らにしても、たくさんのご老人を相手にしており、心に余裕がないのだろう。だからと言って、母を自宅に連れ帰っても、酸素も供給できないし、医学的な知識もないし、どうしようもないのだ。仕方なく、ワーカや看護士の方々にお礼を言ってから母の病室にもういちど行った。母の手をにぎりながら、目を閉じさせて、静かに歌を歌ってあげながら、しばらくそばにいたら、最初おちつきがなかった母も次第にあくびをして、静かに寝入ってしまった。もう夕飯の時間になろうとしていたので、静かに母の手を放し、病室を出て、家に向かった。

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なぜという問のない生き方について

 「なぜ」と問うことは、人間の特権であり、優越でもある。しかしそれは、その問いに答えがある場合のことであり、もし答えというものがないような問題が存在するならば、それについて「なぜ」と問うことは、何等の優越にも特権にもならないであろう。ところで、この説教で取り扱っているところの「生き方」という問題に関しては、まさに答えは千差万別であり、決して一つではない。ところが「なぜ」と問うのは、そもそも一つの答えを見出すためなのであり、答えが一つでない以上、「なぜ」と問う意味もまたないのである。そればかりか、この「なぜ」との問いは、それが答え無き問いであるゆえに、それを発する者を、返って失意の底に沈めるに十分なのである。それにも関わらず、多くの人間が人生に対して、この「なぜ」との問いを発し続けているところに人間存在の矛盾があるとも言えるだろう。
 しからば、人生に対するこの「なぜ」との問いは、どのように解消し得るのであろうか。それがエックハルトがこの説教で語っていることなのである。彼によれば、人生に対してこの「なぜ」という問いが発せられるのは、人間がその「被造性」の呪縛に陥っているからに他ならない。すなわち、個々の被造物が、自分のために自分の方法で自己実現しようとするのであり、かつ他との比較の中で自己実現しようとするのである。そしてそれは、自分本意のはかない夢を追い求めているときだけでなく、互いに愛し合い、助け合うときにも、また真理の飽くなき追求においてもそうなのである。そしてエックハルトによれば、そのような探求の途上にある人は、決して神を知ることがないと言うのである。
 彼は語る、「わたしに賢い兄弟がいたとしても、わたしが愚かであれば、そのことが何の助けとなるであろうか」と。つまり人は、知恵や浄福を他人から貰い受けることはできないのである。それゆえ彼はまた、「キリストは神よりわれわれに遣わされた使者であって、わたしたちの浄福をわたしたちに告げ知らせた方であった。キリストがわたしたちに告げ知らせたこの浄福こそ、わたしたちのものであったのである」と語る。つまり、もし私たちが知恵や浄福を本質的に自分の内に持っているのでないとしたら、そのときは、浄福を手に入れる手段もまたないのである。つまり、私たちがもし本当に浄福であるとするなら、そのとき私たちは、他の人との比較においてとか、またあの人のようにとかそういう被造的、すなわち遇有的な性質においてではなく、自分自身の絶対的な性質において浄福であるはずなのであり、そのとき初めて私たちは、真にこの「なぜ」という問いから解放され得るのである。
 この絶対的かつ本質的な浄福は、どこからもたらされるのであろうか。エックハルトによれば、それは実は、もともと私たちの内にあったものであり、キリストの取った人性がその保証なのである。つまり、もしその浄福が私たちの内になかったならば、キリストもまた人性を持つことはなかったであろうし、逆にキリストが人性を持ったということは、その浄福が私たちの内にあるということを保証するものだというのである。というのは、キリストは、真の神であり、そして同時に真の人だからである。
 それゆえ私たちは、自分の内にこの浄福を再発見し、取り戻なければならないのである。どのようにしてであろうか。エックハルトは語る、「神があなたに切に願うことは、あなたが自分の被造物としての有のあり方にしたがって、自分自身より離れ、あなたの内に、神を神としてあらしめることである」と。それは、ただ神だけがあなたにとって、すべてのすべてとなることである。その結果あなたは、もはやそれまでのこの世界との関係を喪失し、ただ神との関係のみがそこに残される。それゆえ、そこにはもはや、時間も空間も、計画も反省もない。それらはすでに過ぎ去り、あなたは解放されたのである。
 そのときあなたは、何を意志するだろうか。何があなたに行為を要求するのだろうか。まず、それはあなた自身ではない。というのも、あなたはすでに、この世界との関係を精算してしまったからである。それでは、神であろうか。否、たとえそのようにあなたが無一物となり果てたときにも、神はあなたの自主性をあくまで侵害されるようなことはないのである。それでは、あなた自身でも神でもないとするならば、いったい誰があなたに行為を要求するのだろうか。エックハルトは語る、「神のためにあなた自身から完全に離れよ。そうすれば神はあなたのために自分自身から完全に離れるのである。この両者が共に離れるとき、そこにあるのはひとつの単純な一である。この一なるものにおいて、父はその子を最内奥の泉に生む。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意志が神の内に湧き出でる。この意志は魂に属するものである」と。
 つまりそれは、あなたでもなく、また神でもない、いわば第三の意志、しかしそれはまた一方で、あなたでもあり、また神でもある。というのは、そこにはもはや、あなたと神との明確な区別はないのだから。あなたも神も、すでに互いに自分自身から離れたのだから。そして、このことに関してだけは、あなたは神に先行することができ、神を強いることができるのである。エックハルトは語る、「ここでは、神の根底はわたしの根底であり、わたしの根底は神の根底である。ここにおいて、神が神自身のものによって生きるように、わたしはわたし自身のものによって生きる。たとえ一瞬たりとも、この根底をのぞき見たものには、千マルクの純金硬貨といえど、偽造一ヘラー銅貨ほどにしかすぎないものとなる。あなたは、この最内奥の根底から、あなたのわざのすべてを、なぜという問いなしに、なさなければならない」と。この一つの根底に、私も神も自分自身を離れて、そこに帰り行くのである。そう、それは帰るのだ。もともと私はそこから出てきたのである。そしてこれこそが、かのキルケゴールも言っていた、「この内で生きるなら永遠も長過ぎることはない」ところの永遠の我なのである。

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