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2011/11/26

魂の内にある一つの力について

 「イエスを迎えるべき人は、乙女であり処女でなくてはならない」とエックハルトは語る。主イエスを心に迎えようと思うなら、私たちは、処女のように純粋な心にならなければならないのである。しかし主イエスは、私たちの心に、霊か何かのように乗り移り、私たちを操られるというのではない。そうではなく、私たちが心から願うときだけ、初めて主イエスは、私たちの心に入って来て下さるのである。主イエスは、私たちの心のどこへ入られるのだろうか。エックハルトによれば、彼自身が「魂の城」と呼ぶ領域が魂の内にあり、そこに主イエスは迎え入れられると言う。それは、「領域」と言うよりもむしろ「ひとつの力」である。もっともエックハルトによれば、精神自体が神から魂に貸し渡されているところの「働くための力」なのである。つまり、精神は神が永遠の内で働いているところの「神の業」なのである。そこで、言うまでもないことだが、精神自体は、実に大いなるものである。それは、「神の業」であり、ある意味で「神そのもの」とも言えるのである。そこで、精神の中には、数々の驚くべき力が働いている。エックハルトは、この説教の中で、それらの内の3つの力について言及している。
 一つ目は、五感のようではなく、時間とも肉とも結びついていない力であり、まさに神的な力である。それは、「霊的な生命力」とでも例えようか。この力が永遠の内で御子を誕生させたのであり、今も一瞬一瞬において誕生させているのである。二番目の力は、「霊的な歓喜の力」とでも言おうか。永遠の世界におけるすべての可能性、すなわち現実性は、この力から生じるのである。三つ目の力は、もっとも偉大な力であり、先の二つを遙かに超えて高貴である。エックハルトの言葉によれば、「それは、これでもなく、あれでもない。それにもかかわらず、ひとつのあるものであって、それは天が地を高く超えている以上に、これとかあれとかをはるかに高く超えている」のである。そのような私たちの意識さえ遙かに届かないような精神の最内奥へと私たちは主イエスを迎え入れなければならないのである。もし、私たちが主イエスと人間的な関係を持とうとすれば、私たちは、神の宮としての私たちの心の前庭において主イエスと相対することになる。それでは、私たちは主イエスを神として対応していないことになろう。もし主イエスを神として心に迎えようと思うなら、あなたは、主イエスをあなたの心の神殿の最内奥である至聖所にお迎えしなけけばならないのである。
 しかし、そこが至聖所であることをあなたは忘れてはならない。つまり、あなた自身は、そこに入ることができないし、近づくこともできないということを。しかし、それにも関わらず、それはあなたの内にあるのである。それゆえ、かの「精神の城」なる力があなたの代わりにすべてのことを行うのである。そこで、あなたの成すべきことは、この世的な心づかいにより邪魔をせずに、その成すがままにあなたの心身を任せることなのである。そして、主イエスを迎え入れたあなたに何が起こるのだろうか。かつて、ソロモンが神殿を奉献したとき、栄光の雲が宮を満たし、祭司たちでさえ、そのなかに入ることができなかった。そこに主の栄光が満ち、至聖所だけでなく、神殿全体が聖なるものとなったからである。ちょうどそのように、主イエスがあなたの心の至聖所に迎えられるとき、あなたの心身を栄光の雲が満たすように、あなたの心は聖なるもの、神の御心を知るものとされるのである。そのとき、あなたの心は、神の前に永遠のものと変えられる。かつては、アダムのように神から離れてしまう可能性があったあなたの心に、永遠の従順が与えられる。もはや、どんな思いも、どんな理由も、どんな計略も、どんな真理も、あなたを神から離すことはできなくなる。そのようにあなたの信仰は不動のものとなり、あなたは、自分が永遠の祝福を獲得したことを自覚するのである。

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入院二日目

 昨日は、10日ぶりに出勤した。午前中は、なかなか調子がでなかったが、溜まっていた仕事を片づけることができた。定時になると早速退社して、母の病院へ直行した。点滴の勢でだいぶ元気になったように見えて一安心した。
 今日は、私の街の市民クリスマスがあり、実行委員会スタッフとして参加することができた。母の介護を始めてから、出席は不可能と思っていただけに、思いがけなくうれしかった。それが終わってから、また母の病院へ駆けつけた。途中で花屋へ寄り、バスケットに花を生けてもらって、持って行った。家内にもそんなことはしたことが無いので、知ったらきっとやきもちの一つくらい焼くかもしれないと思いつつ。母は、その花を見て、「わあ、きれい」と言ってくれた。「みんなやさしい人ばかり?」と聞くと、「やさしい人もいれば、少し無神経な人もいるよ」とぼやいた。「それは、こまるねえ。やさしい人ばかりに当たればいいねえ」と私が言った。ちょうど夕食の時間になろうとしていた時だったので、どんなものを食べるのか見ていた。おかゆとサラダ、肉じゃが、いずれもすりつぶしたようになっていたが、母は箸をつけなかった。呼びかければ返事をするのだが、どうも体の機能が衰えてきているように思えた。元気になって行く部分と衰えて行く部分、全体的には、意識もしっかりしていて、生きているのだが、部分的には煙のように眠っているような母。でも、車椅子のときに膝が寒いので、家にあるハンテンを持ってきて欲しいと頼まれた。食堂にいた15人ほどの他のお年寄りの手前、今日は早々に引き上げてきた。

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