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2011/11/23

仕えるということ

 昨夜は、おばあちゃんに対して、ちょっと激しく応答してしまった。なにしろ、30分おきに電話で起こされたものだから。何度も、寝付いたかどうかというときに電話が鳴り、行ってみると、電気毛布がぬるいだとか、元気かどうか確かめたかったとか、その類のことだったものだから。「いい加減にしてよ。こっちだって、眠らないと死んでしまうよ」と私が強く言うと、シュンとしてしまったので、ちょっとかわいそうにも思った。おばあちゃんは、夜良く眠れないようだ。私の見たところでは、午後から夕方にかけて良く眠っているので、そのように私とと言うより、普通の人と睡眠のサイクルがずれているのである。そして、眠れないと、腹水がたまっていることもあり、トイレが近いので、私を電話で起こすことくらいしかやることがないのだろう。私も、1時間に1回程度のコールは、なんとか耐えているが、昨夜はさすがに堪忍袋の尾が切れてしまった。
 「仕える」ということは、どういうことなのだろう。私の考えでは、「仕える人」と「仕えられる人」とでは、あくまで「仕える人」が主導権を取るべきだと思う。だから、子供にしても、たとえ老人にしても、その人が「仕えられる人」ならば、俗な言葉で言えば、「甘やかすべきではない」ということになる。その「仕えられる人」の心が次第に葛藤の奴隷となり、自分の境遇に負けてしまうことになるのは、何としても避けなければならないと思う。
 イエス・キリストは、「私は世に仕えるために来た」と確か言われた。しかし、あくまで主導権は、イエス・キリストにあるのであり、私たちは、信仰生活において、そのことをしっかり自覚している必要がある。イエス・キリストに甘えすぎてはいけないのであり、主は、私たちに仕える中で私たちを懲らしめ、鍛えられるのである。これが、「仕える者」の真の姿だと思う。「仕える」とは、相手の益を最大限に考えることだと思う。そして、その力は、特に目上の人に対して仕える力は、私たちにはない。だから、昨夜の私のように子供じみた怒りを発してしまうこともある。しかし、私たちが祈りつつ人々に仕えるときに、主は私たちを導き、私を通して、相手の人に、主ご自身が仕える者となってくださる。私たちは弱いが、主は強く、頼りがいのあるお方だからである。

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