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2011/11/22

介護生活の始まり

 「うちのおばあちゃん」とは、私の母のことである。1週間ほど前に急に介護が必要な身となり、一人ではトイレにも行けないため、その日を境に、私も会社に行けなくなってしまった。私の気持ちは別としても、急に歩くこともおぼつかなくなった母の気持ちはどんなであろう。母は、2年前に洗礼を受けたばかりのクリスチャンであるが、実はいまだに仏壇に花やご飯、線香を供えていた。歳をとってから信仰に入った方の中には、そのような人もいることは聞いていたが。1週間くらい前には、その勤めを私にやれと言っていて困ったが、今ではそれさえも忘れてしまったらしい。気は確かで、ボケてもいない。しかし、平衡感覚が侵されているようだし、言葉もおぼつかなくなってきた。最初に会社を休んだ日に、家の電話の子機に私の携帯番号を登録しておばあちゃんに渡した。それ以来、どこにいても、何をしていても、電話で呼び出される。特に夜は、トイレに1時間おきに起きるので、私もまともには眠ることができない。最近になって分かったのだが、左の目がほとんど見えないらしい。耳も左が遠いし、左足が痛くて若干びっこを引き気味である。医者は、脳の血管が細くなってきていて、軽い梗塞を起こしているらしいと言っていたが、それは右の脳に掛っているのだろう。
 母の介護を始めて、早1週間になろうとしているが、いまだに出勤の目途は立たない。このような生活になって、まず感じたことは、なぜか「人間はすばらしい存在だ」ということだった。母のたどたどしい行動を見ていて、「介護を受けるに相応しい」と思った。母の心の中は、分からないが、自分の状態に甘んじ、時にそれと戦い、それを受け入れ、一生懸命に生きていることを感じることができる。心の中の葛藤は、言葉に出ないが、心に訴えかけてくるものがある。人間とは、なんだろう。世のため、人のために働ける人が価値のある人間なのか。そうではないと思えてくる。人間の行える徳行は、本当に限界のあるものである。それを成したところで、神の前にどれほどの功績となるだろうか。
 私は、母の信仰が心配でもある。あの歳で洗礼を受けて、どれほど聖書のことやイエス様のことが分かっているだろうか。家では聖書を開くことはまったくと言って無い。字が小さく過ぎて読めないからだ。礼拝のメッセージもたぶんほとんど理解できないだろう。仏壇に花をささげている母に私は言った、「おばあちゃん、ご先祖様は、極楽浄土にいるかもしれないけど、おばあちゃんは、天国に行くんだから。おじいちゃんもそこで待っているんだから、それを忘れないでよ」と。母は、「うん」とうなづいた。これから、いつまでこの生活が続くのか、定かではないが、私にとっては貴重な体験になるだろう。この機会に、人生について、仕事について、信仰について、いろいろと考えてみたいと思っている。

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