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2011/11/12

魂という神殿について

 「私たちは、神の似姿に造られ、神に似たものとなるためにこの地上に置かれている」とエックハルトは言う。しかし、私たちは、信仰というものをどのように認識しているだろうか。たとえば、クリスチャンは、一般的にどのような人間になろうとしているのだろうか。エックハルトは語る、「聞きなさい、次のような人々は皆商人である。重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなす人々。このような行為とひきかえに気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えているかぎり、これらの人々はすべて皆商人である」と。そして、主イエスは、そのような商人たちを宮から追い出されたのであると。
 しかしあなたは、こう言うかもしれない、「私たちは、神の栄光のために生きるのであって、自分の利得を求めているのではない」と。しかしそれでも、あなたが今成している業が、たとえば友の救いのためであったり、またはあなたの住む街の回復のためであるとき、それがエックハルトが言うところの「このような行為とひきかえに気に入るものを主が与えてくれると考えている」ことに当たるとしたらどうだろうか。しかし実際にエックハルトは、まさにそのことを言っているのである。つまり彼は、ことの善し悪しを考えているのではないのである。彼は語る、「しかしなおも彼らは自我性や時間と数、前と後とにとらわれてわざを働いているので、これらのわざによって最善の真理への到達がはばまれていまうのである」と。つまり、商人は社会にとって必要であり、その意味で彼らはいわゆる「善い人々」なのであり、「商人」なのである。しかし、商人がいてもそのことで社会が善くなるわけではない。何が欠けているのだろうか。神は言われる、「これらのものを持ってここから出て行け。わたしの父の家を強盗の巣にするな」と。そして、また言われる、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と。つまり、大切なのは、細心の注意を払って神の御声を聞くことであり、ただその聞いたことだけを行い、それ以上先に進まないことなのである。そのように、あなたが自分の内で、あなたの考えるすべての善いことを断念するとき、初めて主イエスはそこに来て、語り始められるのである。
 もし私たちがこのことに成功するなら、いったい何が起こるのだろうか。それは、実に驚くべきことなのだが、私たちの魂は、その内に主イエスを宿す聖なる神殿となるとエックハルトは言う。それは、私たちがこれまでに経験したことのないことである。なぜなら、そのときあなたは、初めてあなたの魂の本当の姿を知るからである。そしてそれは、実際に聖なる神殿として機能する。それゆえ、この後には、あなたの方でなすべきことは、もはや何もない。あなたはただ、あなたの魂の内で主イエスを礼拝するのである。そしてそれは、これまであなたが経験したことのない、完全で霊的な礼拝である。霊的な礼拝とは何であろうか。それは、まことしやかな崇拝などではなく、実に神御自身を知ることに他ならないのである。しかしそれは、これまで不可能なことであった。というのも、神は天におられ、あなたは地上におり、そこで天の雛形によって礼拝せざるを得なかったからである。しかしいま、あなたの魂は聖なる神殿となり、神はあなたの外ではなく、内におられるのである。そして、実にそのことにおいては、私たちと主イエスの間に、何の区別もないのである。それゆえ、あなたはもはや、あなたの外に何も捜し求める必要はない。神は、まさにあなたの内におられるからである。
 主イエスは、あなたの内にその聖なる支配力を顕わされる。これまでもあなたの魂はそれを心から待ち望んでいた。しかし、それがあなたに行使されることに、あなたは耐えられなかった。なぜなら、その支配力は、あなたの自由を外から根こそぎ奪って行ってしまうようなものだったからである。それが外からあなたに望むとき、それはあなたを縛り、制圧し、あなたという存在を消滅させるものにさえ思われたのである。しかし、今は違う。なぜなら、あなたの魂は今、神の聖なる神殿となり、あなたの神は、あなたの内におられるからである。あなたの魂のこの変化は、主イエスの支配力をあなたの内に自然な形で、そしてなくてはならないものとして、位置づけるのである。
 また主イエスは、はかり知れない知恵をもって、自らをあなたの内に顕わされる。その知恵とは、イエス御自身である。すべてのものは、この方によってできた。この方は、すべてのものの起源であり、また目的でもある。この方は、永遠の昔から永遠の未来に渡って生きておられる。その神の知恵なる主イエスがあなたの内に来られるとき、「魂からはあらゆる疑い、あらゆる迷い、あらゆる闇が完全に取りのぞかれ、『主よ、あなたの光に、わたしたちは光を見る』と預言者が語るように、神自身である一つの純粋で透明な光のうちに魂は移される」とエックハルトは語る。
 以上のことは、あなたにとってまったく新しいことであり、かつて考えたことも思い描いたこともないことである。それゆえ、それを得るために、あなたの持っているどんなものも役には立たない。実にこのことに関しては、聖書さえも役に立たないのである。なぜなら、その聖書に次のように書かれているのである。すなわち、「その石には、これを受ける者の他、誰も知らない新しい名が書かれている」と。つまり、これはあなたと主イエスだけの関係であり、その間には、他の何ものも入ることができないのである。しかもあなたは、あなたの内に主イエスを捜してもむだである。あなたの内に主イエスは、おられないからである。そうではなく、反対にあなたは、主イエスの内にあなたを捜さなければならない。すると、主イエスは、あなたの内に御自身を顕されるのである。
 どうしたら、これらのことが可能となるのだろうか。それにはあなたが、これまでに学んできたすべてのことを、たとえそれが福音的なものであっても、それらをすべて忘れ、この主イエスとのまったく新しい関係を捜しもとめる必要があるのである。というのは、それらの知識は、あなたと主イエスとの関係を、この世界の例えば「自我性や時間と数、前と後とにとらわれて」規定しているので、それらがあなたを主イエスとの古いこの世的な関係に留め置こうとして妨害するのである。しかし、あなたと主イエスの関係は、本当はもっと生きたダイナミックな関係なのだ。主イエスは、今生きておられ、あなたに対してこの世界のどんなものよりも遙かに強い現実性をもって存在されるお方なのである。そのことが、霧が上がるようにあなたに明確に啓示されるとき、あなたと主イエスの真の関係が回復されるのであり、あなたはそのことを願い求めなければならないのである。そう、あなたが成すべきただ一つのことは、この「願い求める」ということであり、「祈ること」だけである。すると、主イエスの方からあなたに近づいて来てくださる。それ以外に方法はないのである。そして、あなたはただこの神の時を待ち望むのである。

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変容への憧れ

 「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければならない」とエックハルトは語る。そして、これこそが私がこのブログカテゴリーを立ち上げた目的であった。つまり、エックハルトが語っていることを理解するだけでなく、彼が語るところの存在に自らが成ること、すなわち『変容』である。エックハルト自身は、それを露骨に『神と成る』と言い表す。正当派は、これを異端視するに違いない。しかし、エックハルトを異端視する人々が必ずしも聖書の十分な理解を提供するとも限らない。例えば、主イエスは「あなたがたは、神々だ」と語っているし、福音も「私たちは神の子」だと主張する。しかし、これらのことが何を意味するのかについて、彼らは十分な解釈もなく、ただ聖書にそのように書かれているという理由だけでそのように表現し、その厳密な意味については際限なく保留し続けているのではなかろうか。しかし、エックハルトは語る、「誠に驚くべきことである。聖書の内容はこんなにも豊かであるのに、だれひとりとして、その一語さえも説明がつかないとは」と。それを受け取るためには、私たちの心が全く変えられる必要があるのである。
 『変容』、私は『変容』に憧れる。『変容』なくして、神の子となることはできないと。それは、私の属する教団においては、『聖め』と言うのだろうか。しかし、それを何と呼ぼうと問題ではない。『全く変えられる』ことが必要なのである。しかしそれは、自己を喪失することではない。エックハルトにおいては、この『変容』は、「精神の高まり」、「知性の内への飛翔」によって成される。彼はまた、「人が知性の内で生きるときにだけ、聖霊は贈られる」と言う。つまりそれは、ある種連続的な変化なのであり、まったくの別人となることではないのである。しかし、また彼は語る、「この光の内で魂の一切の力が高まったのである。諸々の感覚は思惟の内へと飛翔するのである」と。「飛翔」と言うかぎり、そこにはいくばくかの不連続な要素があることは確かである。しかし、飛翔する本人は、自分が飛翔することも知っており、その後には、自分が飛翔して来たことも覚えている。しかし、それはあくまで「飛翔」であり、一つの不連続なのであり、そのようにしなければ、神の内には入れないのである。
 エックハルトのすばらしいところは、この『変容』の仕方を語っていることであり、そのように語った人は、いまだかつてだれもいなかった。それは、きわめて神秘的で、とらえどころのないもののようにも見える。しかし、それは明らかに、方法論なのである。そして、私がこのブログで追い求めてきたのも、この『変容の方法』だったのである。
 エックハルトは、この「変容に至る時」として、2つのケースを提示する。一つ目は、「すべての時間があなたから失われる時、すなわち死するとき」、そしてもう一つは、「時間が永遠の内に入るとき」であり、それは生きているときのことである。そして、生きている間にこの「変容」に至る者は、その後の人生において、神に大きく用いられる可能性を持っているのである。

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