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2011/11/05

論述:離脱について

 エックハルトは、様々な書物を読み、最高の徳とはなにかを探求した。しかし彼は、ある特定の徳と言われるものの内に最高のものを見つけることはできなかった。むしろ、彼が見出したのは、「純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐ」ということ、つまり「徳をさえ追い求めない、善悪を超越した境地」にこそ、最高の徳があるということだったのである。それは、いったいどのようなものなのだろうか。それは、「愛」よりも純粋で、「謙虚さ」よりも高貴、また「憐れみ」よりも神に近いものだという。このエックハルトの語る、最高の徳としての「離脱」というものは、それ自体非常に一貫したものであり、自らは何も求めず、知ろうとせず、成そうともしない。それは、一見石のように頑固でありながら、また一方で空気のように怠慢であるようにも見える。しかし、そのような離脱の状態にある人に、ひとたび神が声を発せられるや否や、彼はそれまでしていたすべてのことを即座に投げ捨て、その場所から立ち上がり、神が彼に命じたことに直ちに取りかかるのである。つまり、彼は神の目配せにいつでも対応できるようにと、耐えずすべてから身を引いているのである。
 どうしたら、そのようになれるのだろうか。しかし、どのようにしたらということはないのだとエックハルトは言う。「どのようにしたら」ということほど、離脱に反することはないからである。つまり離脱には、そこに至るための具体的な方法も目的もない。そこに至りたければ、文字通りすべてを放棄するだけである。その結果、神があなたを離脱へと導いて下さる。神の良しとされるときに。しかし、それはいつなのか。それは、誰にも分からない。これは神の主権に関わることなのである。というのも、もしあなたの今の状態が、あなたが離脱するのにふさわしい段階になければ、あなたは今離脱することは決してできないからである。そればかりか、そのように準備ができていない状態で離脱を試みることは無謀であると共に、またあなたの精神にも危険が及ぶ、いわば自殺行為ですらあるのである。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。ここであなたは、はっきりと知らなければならない。この世界には、あなたの自由になるようなことは、たとえあなた自身に関することであっても、なに一つとしてないのだということを。すべては、神のためにあるのであり、あなたがすべてを神のために行うことを心から求め始めるまでは、離脱への扉は、あなたに向かって決して開かれることはないということを。そしてエックハルトは語る、「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである」と。「苦しみ」という動物について彼は語る。動物は、人のために造られたが、人の助け手にはならなかった。「苦しみ」も、人の助け手にはならないが、それでもそれは、人のために造られたのである。それを受ける人の魂が砕かれ、謙虚にされ、この世界の事物を軽んじることを知るようになる為に。しかし、たとえ苦しみであっても、それが適切に受け取られない場合には、命取りになり得る。苦しみ自体は、悪いことであり、災いだからである。そこで、これもまた神の賜物なのである。神がその人を取り扱われ、練り聖め、ご自身の役に立つ者にされるのである。
 しかし、そのようにして、ついにあなたがその段階に達するときがやってくる。挫折と練達の弁証法が何度も転回し、これまであなたは神に近づくことに幾度となく失敗してきたが、あるとき、神から一筋の力があなたにやってきて、あなたをつつむということが起こるのである。あなたはそれに気づかないかも知れない。そして、いつものように自分の意志と力で復帰を試みているように思っているかも知れない。しかし、あるとき突然、あなたにそれが理解される。あなたを導いているのが神であるということが。そこに神がおられたということが。そして、いまこのときがまさにあなたの復帰のとき、すなわち「離脱のとき」だということが。あなたは、このときを決して逃してはならない。というか、あなたはこのときを決して逃すことはないだろう。それは、永遠の昔からあなたのために計画されていたものである。もしかしたら、あなたにはそれが信じられないかもしれない。あたかもそれが、あなたの身勝手な思い込みのような気がして。そして、またしてもそれが挫折への一つの契機でしかないかのような気がして。しかし、あなたは気づくだろう。もしあなたが確信さえすれば、それがそのままあなたにおける真理となり、真実の転機の時となるのだということを。いままでは、いくらあなたが確信しても、思い込もうとしても、あなたの状況がそれを許さなかった。しかし、いつのまにかその状況が変わっていることにあなたは気づく。それは、一つの予感でもあるのだが、あなたが確信しさえすれば、すべてがあなたに開かれるということがあなたに知られる。つまり、あなたを差し止めていたものが取り除かれたのであり、それだけが今までと違っていることなのである。そこで、あなたは、恐る恐る前に歩み始める。すると、あなたの前に道ができ、あなたに神の導きと助けが伴っていることが分かる。しかし状況は、これまでと何も変わってはいない。変わったのは、あなたが進もうと思うところへ進めるようになったこと。つまり、あなたを差し止めていたものが取り除けられたことである。それでももちろんあなたが、独力で進まなければならないという状況は以前と比べて何も変わっていない。神は、最後までこの「あなたの自由」という足かせだけは、決して取り除こうとはされないのである。エックハルトは語る、「この奇跡をよく聞きなさい。何と驚くべきことであろう。外に立つと同時に内に立ち、つかむと同時につかまれ、見ると同時に見られたもの自身であり、保持すると同時に保持されるとは。こここそが究極の場であり、そこで精神はあこがれの永遠とひとつになり、安らぎにつつまれてとどまるのである」と。
 そのようにして、あなたはエックハルトの語る「離脱」に至るのであり、そのようにしてそれはあなたにやって来、あなたは自己を突破し、神性の近くにまで至るのである。彼は語り、祈る、「それゆえ、完全なる離脱に至ろうと願うものは、完全なる謙虚さを得ようと努めなければならないのである。そうすれば神性の近くにまで至ることとなる。このことがわたしたちすべての者にかなえられますよう、最高の離脱が、それは神自身であるが、わたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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