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2011/10/19

新改訳聖書のどこが気に入らないのか

 これまで新改訳聖書について、2つのカテゴリーに渡って批判的な記事を書き連ねてきた。読んだ方々の中には、あるいは気分を壊された方も少なくないかも知れない。そこで、最後に私がこれらの記事を書いた意図をもう一度整理しておきたいと思ったのである。私とて、自己の気分を害さずにこのような記事を書けるものではない。このブログは、他人を批判したり中傷したりするのが目的ではないし、数あるカテゴリーの中で、批判的な記事は、この2つのカテゴリーに限られている。そうまでしてこの記事を書いたのには、それなりの理由があると認識している。それを最後に確認してみたかったのである。それでは、新改訳聖書のどこが気に入らないのか。
 まず第一に、新改訳聖書が他の翻訳の批判から生まれたという経緯である。それにより、その批判に同調する派に連なる数々の教会で、新改訳聖書が公式に採用されることになり、結果的にその他の翻訳聖書がそのような派に連なる諸教会では読まれる機会が著しく制限されるということが起こったのである。しかしそれが十分な説明を経て、各個教会の納得により行われたのならまだしも、教団がこの翻訳を採用すると決められたならその教団に属する教会はすべてその翻訳聖書を採用するというような風に行われてきているのを見ると、やはり最初の批判的な動機による翻訳事業の開始は、現在に計り知れない影響をもたらしていると言わざるを得ないのである。しかしそれは、新改訳聖書の翻訳に関わった方々の意図ではないかも知れないし、あるいは意図であったのかもしれない。いずれにしても、それは彼らに制御できることではなく、キリスト教会のデノミネーションにより、結果的にそのようにならざるを得なかったのである。そして、それを予期することも制御することもできないのに、あえてそれをしたのは、やはり軽率だったのではないかと思うのである。というか、そこまで考えていなかったのだろう。悪く言えば、党派心のなせる業だと思うのである。だからと言って、私は新改訳聖書の訳者たちを恨むこともできない。彼らは、それを自覚していなかったのであり、それを制御する力もないのだから。この件に関しては、誰も恨むことができず、ただただ、新改訳聖書という作品を憎むのみである。
 第二に、上記の2つのカテゴリーで提示してきたように、新改訳聖書には、適切でない翻訳、支離滅裂な意味、表現が溢れているので、これを持って一般信徒が一人でデボーションをするのにはまったく向いていない。デボーションには不適切、使用不可としか言いようがない。新改訳聖書刊行会自身も「聖書は信徒が一人で読むものではない」というような意味のことをそのホームページで語っているのだからあきれて物も言えないのである。聖書が神の言葉であるなら、少なくともキリストを信じた人は、それにむさぼりつくように読むはずではないか。しかしそのように読んでいる人はほとんど見当たらない。その原因が新改訳聖書の翻訳内容にあるとばかりに決め付けるわけには行かないが、福音派、カリスマ派、聖霊派において、新改訳聖書が多用されている現実を見ると、なにか鳥肌が立つような思いがするのである。そして、これらの教派の信徒がもし適切な翻訳聖書を与えられていたら、今ごろは日本に大リバイバルが起こっているのではないかとも思うのである。
 第三に、新改訳聖書は、不完全で統一のとれていない翻訳と見られる点である。ちょっと気をつけて読むと、各書間の訳者の違いが分かるようだ。わざわざ不自然な文章にしてまで、何か翻訳規則を設けて均一な翻訳となるように細工しているようであり、それを直訳と称しているようなのだが、翻訳者間の知識の差は拭いきれず、それが各書間の不整合を生んでいるように見受けられるのである。これについても上記2つのカテゴリーの中に分散して論じているが、ここでいちいちそれを取り集めて証明するようなことは控えたい。
 ここまで書いてきて、上記の主張が、聖書学的な深い知識に立脚していないことは、自分でも自覚しているつもりである。しかしそうだからといって、それが聖書学的な観点から見て間違っているとも言えないと思う。返って聖書学的な知識が、聖書翻訳にどれほど影響するのかは疑わしいと思うのである。というのも、上記のような特定の聖書翻訳への批判を最初に生み出したのは、まさに聖書学的な知識であったのだからである。だから私は、そんなものは捨て置いて、学問的な知識に乏しい一般信徒としての立場からでき得る限りの議論をしているのである。そして、私の書いたことに対して、自由なコメントを求めたのであり、それに誠意を持って応えてきたつもりである。これは、今後も続けたいので、この一連の批判的な記事もそれに対するコメントと共にずっと残しておきたいと思う。
 最後に、前回の記事で、新改訳聖書の批判は、もうこれで終わりにしようという意味のことを書いたが、あれからデボーションで新改訳聖書を読んでいて、やはりちょくちょくと気になる箇所が出てくるので、それをこの記事の最後に挙げ連ねて行きたいと思う。新改訳聖書の引用は、一つのサイトに250節以内とあるが、このサイトでの引用は、まだそれに達していないが、無制限に引用するのを控えるために、ここに掲示するのは、書名、章番号、節番号、概略の説明句に留めたいと思う。

【新改訳聖書の疑問的な箇所】

詩編36:2・・・・・・・・それを憎むことで?
詩編37:27・・・・・・・住み着くように?
詩編45:4・・・・・・・・恐ろしいことを教えよ?
エゼキエル16:43・・・・もうすまい?
エゼキエル37:7・・・・・大きなとどろき?(骨の音が?)

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コメント

ぱんだ様
コメントありがとうございました。
私も最初は、勢い余って新改訳のことをかなりひどく言っていましたが、最近では、新共同訳の訳にも気になるところが目に付くようになりました。おっしゃるとおり、新改訳の訳の方が良いと思えるところもあると思います。
私が聖書の訳に期待するのは、信徒の信仰生活にどれだけ寄与できるかということです。牧師から教えられずとも、自分で聖書を読むことにより、信仰を深めて行けるか。そして、主イエスのためにどれだけ自分を捧げる思いになれるかということです。そのためには、文脈が大事だと思います。やはり、文脈を意識して、信徒が読むことを意識して訳してもらいたいと思います。

投稿: ブログの作者 | 2016/03/01 13:05

内容楽しく拝見致しました。
私は大手教団に属していますので、日々のデボーションにも新共同訳(続編付き)を使っていますが時折翻訳に???がつくことになり、KJVとNASBと口語訳を参照することがあります。それでも分からないときはヘブライ語聖書アプリから印刷してちまちま直訳してみたりしますが、後から新改訳を読んで「始めからこっちを参照すればよかった」と思うことがあります。確かに私のなかでも「まぁ新改訳は福音派が使う聖書でしょ」という認識でしたが、新改訳の方が良い翻訳の部分もあると思います。
新共同訳の列王にある「聖なる高台」などは新改訳にも口語訳にもヘブライ語本文にも「高いところ」としか書いてないのにどうして聖なるなのか?とか。
あとは祭儀的部分においてはカトリックの意向を汲んでかかなり、カトリック儀式に合わせた訳…というより付けたしがあったり…読みやすいですしなかなか憎めない翻訳ではありますが、訳の正確性からいうと翻訳チームの方でさえいうように失敗作なのかなぁとも(笑)
現在は基本は新共同訳、新訳のみ日本聖書協会の標準訳のパイロット版を使っています。
新改訳…うーん、個人的には翻訳としては嫌いですないですが、恣意的な発刊理由がやはり好きになれないですね。

投稿: ぱんだ | 2016/03/01 11:23

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