« 2011年10月26日 | トップページ | 2011年11月5日 »

2011/10/28

神と神性とについて

 「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった」とエックハルトは語る。神の内には、一時的なわざというものは存在しないのである。それに対して彼はまた、「神が人を創造したとき、そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを顕した。それは、神が現に働いているわざであり、永遠なる神のわざである。そのわざは、魂以外の何ものでもないほどに大いなるものであり、また、魂さえも神のわざそのものに他ならないのである」と語る。つまり、神の内には、ただ永遠のわざのみがあり、人の魂こそがその「永遠のわざ」なのである。しかし、厳密に言えば、魂自体は造られたものであり、被造物である。そこで、エックハルトがここで「わざ」と言っているものは、魂から発出する知性と意志のことに他ならない。そこで彼の言うように、人の心が神のわざであるとするなら、それは限りなく神に近い、というより、それは神そのものとも言えよう。それが独立した意識を持つのは、実にそれが孤立した「有」、すなわち「魂」において現れ出で、そこに働いていることに起因するのである。
 しかし、エックハルトがそのように魂と神を同一視することは、神への冒涜とはならないのか。それに対しては、彼の提示する神概念の特殊性が一つの説明となる。それは、「神」と「神性」の二つから成るものである。そして「すべての被造物が神と言うとき、そこで神は神と成るのである」と彼は言う。つまりエックハルトによれば「神」とは、神のわざとしての私たちの心が発する神性の旋律であり、それにより、そこに神が臨在されるのであるが、その際、魂は魂のままなのである。そのように、私たちの心は、個別的な有としての私たちの魂に働く神のわざであり、そして「神」とは、私たちの魂が反映する神性からの光なのであり、そのように神は、すべての魂の内に遍在されるのである。
 かくして、神により創造された私たちの魂は、時間の流れとこの世界の諸々の事物を知覚する。それは、個別化への動き、すなわち「流出」なのであり、全体としての一つの完全なる「有」にして「無」すなわち「神性」からの「流出」なのである。それゆえそれは、時間の中のできごとではなく、永遠の世界における一つの性質なのである。それ、すなわち「私たちの流出」が永遠の世界では、私たちの性質であるなら、それは後から付け加えられたものであり、私たちの本質は、今も神の内に留まっているのである。そこで、私たちが再び神のもとへ帰り来るとは、その後から付け加えられた性質すなわち「固別性」が取り除かれること、すなわち「離脱」なのである。しかし、エックハルトが言うように、「わたしが、神性のこの根底の内へと、その基底の内へと、この源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」。このように帰り来たったとき、そこはすでに個別性を超越した世界であり、そこには「個」というものは存在しない。それゆえそこでは、私の魂が反映するところの「神性からの光」である「神」も存在しないのである。そこでは、私は私自身と神を一として認識するのである。
 エックハルトは、この説教において上述の真理を発見したのである。そして、彼がこの説教をするたびごとに、彼はこの真理を再び「新しく」、「初めて」発見するのである。この真理は、「発見した」と言うことができない。それは、つねに、いつになっても、「新たなる発見」なのであり、私たちにとってもまたそうなのである。彼は語る、「この説教を理解した人がいれば、その人にこの説教をわたしは喜んで捧げたい。しかしたとえここに聞く者がだれひとりとしていなかったとしても、わたしは今日の説教をこの献金箱に向かってでもしたにちがいない。これから家にもどり、慣れたところで、いつものパンをかじり、神に仕えりゃいいと言うあわれな人も多くいることであろう。わたしは永遠なる真理にかけて言うがこのような人たちはいつまでも迷いつづけなければならず、心の貧しさを手に入れることもなく、新たな天地のもとで神に従いゆく人たちが勝ち取り獲得するものをけっして手に入れることもないであろう。アーメン」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年10月26日 | トップページ | 2011年11月5日 »