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2011/10/19

像を介さぬ認識について

 この説教の最初の10行には、実に驚くべきことが書かれている。ここには、これまでの私たちの認識を新たにすべき重要なことがいくつも書かれているのである。まずエックハルトは、「あなたがたは、精神とも心とも呼ばれるあなたがたの霊において新たにされなければならない」と語る。精神と心、すなわち知性は霊だと彼は言うのである。彼によれば、魂から知性が発出する。そして霊とは、魂が「ここ」とか「今」というすべての自然的なものを脱した状態のことなのである。つまり魂は、この世界を生きながら、知性や感性を含む諸々の力を発達させながら、成熟した霊へと成長して行くのである。しかし、彼が別の説教の中で言っている「魂が身体から離れれば、魂は知性も意志も持つことはない」という言葉も無視することはできない。これらから受け取られることは、霊としての魂の成長は、この世界から離脱する方向性にあり、空間と時間を超える方向性だということである。つまり、知性も意志も魂自身ではなくその持っている力に過ぎない。魂は、五感を含めて多くの力を持っているのだが、その多くは肉体と共に衰退し、ついに死に行く。ただ認識と意志という2つの魂の力だけは例外で、これらだけが魂にとどまるとエックハルトは言う。つまり、知性の内においてもその多くの要素は、肉体と共に滅んでしまうというのである。それはたぶん、肉体の死により、魂には空間や時間と関わりを持つ手だてがなくなり、その結果、思考や戦略というような実践的な力が意味を持たないものとなってしまうからであろう。これは恐るべきことであり、私たちは、やがて自分にもそのような時が訪れることを念頭に置いてこの世界を生きる必要があるのである。
 そこでエックハルトがこの説教で提唱するのは、魂の諸々の力を空間と時間を超越する方向で組織化することである。まず、魂の下位の力から、一つ目は、区別する能力「悟性」であるが、これには「照明」という金の指輪をはめなくてばならない。「あなたの区別する力が常に、時間を超えて、神的な光によって照らされているように」とエックハルトは言うが、要するに、自分の努力であれこれつかもうとするのではなく、神的真理として啓示される物事の本質を霊的な知覚によって捉えよということである。魂の下位の力の二つ目は、「憤り」つまり怒りであるが、これにあなたは「平安」という指輪をはめなくてはならない。あなたの義憤が神の永遠の真理と完成された義によって報われるためである。三つ目は「欲求」すなわち欲望である。これには「満ち足り」という指輪をはめなくてはならない。それは、あなたが欲求を超越し、キリストにあって、時空を超えてすべてをすでに持っていることを知るためである。魂の上位の力にもあなたは同様に金の指輪をはめなければならない。第一は、「保持能力」すなわち記憶で、これにあなたは「保有」という指輪をはめる。あなたが苦労して集めた真理がキリストにあってすでにあなたの保有となっていることをあなたが知るために。第二の力は、「理性」、すなわち知性である。これにあなたは、「認識」という指輪をはめるべきである。あなたが神をいつでも認識するように。しかしそれは、空間と時間を超えた、媒介を経ない直接的な認識である。第三の力は「意志」であり、これにあなたは「愛」という金の指輪をはめなければならない。しかしこの愛は、理由や目的のない愛である。「あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない」とエックハルトは言う。それが愛において空間と時間を超えるということなのである。そしてそのとき、「あなたは神を、ひとつの非神として、ひとの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄みきった一なるものとして愛する」ことになる。この愛は、いったいどこへ向かおうとするのか。「あなたの魂が非精神的になり、一切の精神性を脱ぎ捨てるほどに非精神的な仕方で愛さなくてはならない」とエックハルトは語る。そのようにこの愛を極めるということは、自分という存在を極限まで捨て去ることを意味する。しかし、自分を捨て去るのは他でもない自分なのである。これは、何という矛盾であろうか。その人は、果たして完全に自分を捨て去ってしまうことが可能なのか。そもそも、自分という存在がなくなれば、また捨て去るということもできなくなる。そこで、この愛の行為としての喪失は、自分という存在がなくなるまで、つまり永遠に漸進的に続くことになる。「永遠に続くものは、信仰と希望と愛」と書かれている通りである。そしてそれは、永遠の中で一つの一貫した存在性を獲得しており、それ自身が永遠なる存在なのである。私たちは、消滅するのではない。限りなく自分を喪失しながら、神の前に永遠に存在し続けるのであり、それが私たちにとっての、最善で最高のあり方なのである。
 エックハルトは語る、「そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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新改訳聖書のどこが気に入らないのか

 これまで新改訳聖書について、2つのカテゴリーに渡って批判的な記事を書き連ねてきた。読んだ方々の中には、あるいは気分を壊された方も少なくないかも知れない。そこで、最後に私がこれらの記事を書いた意図をもう一度整理しておきたいと思ったのである。私とて、自己の気分を害さずにこのような記事を書けるものではない。このブログは、他人を批判したり中傷したりするのが目的ではないし、数あるカテゴリーの中で、批判的な記事は、この2つのカテゴリーに限られている。そうまでしてこの記事を書いたのには、それなりの理由があると認識している。それを最後に確認してみたかったのである。それでは、新改訳聖書のどこが気に入らないのか。
 まず第一に、新改訳聖書が他の翻訳の批判から生まれたという経緯である。それにより、その批判に同調する派に連なる数々の教会で、新改訳聖書が公式に採用されることになり、結果的にその他の翻訳聖書がそのような派に連なる諸教会では読まれる機会が著しく制限されるということが起こったのである。しかしそれが十分な説明を経て、各個教会の納得により行われたのならまだしも、教団がこの翻訳を採用すると決められたならその教団に属する教会はすべてその翻訳聖書を採用するというような風に行われてきているのを見ると、やはり最初の批判的な動機による翻訳事業の開始は、現在に計り知れない影響をもたらしていると言わざるを得ないのである。しかしそれは、新改訳聖書の翻訳に関わった方々の意図ではないかも知れないし、あるいは意図であったのかもしれない。いずれにしても、それは彼らに制御できることではなく、キリスト教会のデノミネーションにより、結果的にそのようにならざるを得なかったのである。そして、それを予期することも制御することもできないのに、あえてそれをしたのは、やはり軽率だったのではないかと思うのである。というか、そこまで考えていなかったのだろう。悪く言えば、党派心のなせる業だと思うのである。だからと言って、私は新改訳聖書の訳者たちを恨むこともできない。彼らは、それを自覚していなかったのであり、それを制御する力もないのだから。この件に関しては、誰も恨むことができず、ただただ、新改訳聖書という作品を憎むのみである。
 第二に、上記の2つのカテゴリーで提示してきたように、新改訳聖書には、適切でない翻訳、支離滅裂な意味、表現が溢れているので、これを持って一般信徒が一人でデボーションをするのにはまったく向いていない。デボーションには不適切、使用不可としか言いようがない。新改訳聖書刊行会自身も「聖書は信徒が一人で読むものではない」というような意味のことをそのホームページで語っているのだからあきれて物も言えないのである。聖書が神の言葉であるなら、少なくともキリストを信じた人は、それにむさぼりつくように読むはずではないか。しかしそのように読んでいる人はほとんど見当たらない。その原因が新改訳聖書の翻訳内容にあるとばかりに決め付けるわけには行かないが、福音派、カリスマ派、聖霊派において、新改訳聖書が多用されている現実を見ると、なにか鳥肌が立つような思いがするのである。そして、これらの教派の信徒がもし適切な翻訳聖書を与えられていたら、今ごろは日本に大リバイバルが起こっているのではないかとも思うのである。
 第三に、新改訳聖書は、不完全で統一のとれていない翻訳と見られる点である。ちょっと気をつけて読むと、各書間の訳者の違いが分かるようだ。わざわざ不自然な文章にしてまで、何か翻訳規則を設けて均一な翻訳となるように細工しているようであり、それを直訳と称しているようなのだが、翻訳者間の知識の差は拭いきれず、それが各書間の不整合を生んでいるように見受けられるのである。これについても上記2つのカテゴリーの中に分散して論じているが、ここでいちいちそれを取り集めて証明するようなことは控えたい。
 ここまで書いてきて、上記の主張が、聖書学的な深い知識に立脚していないことは、自分でも自覚しているつもりである。しかしそうだからといって、それが聖書学的な観点から見て間違っているとも言えないと思う。返って聖書学的な知識が、聖書翻訳にどれほど影響するのかは疑わしいと思うのである。というのも、上記のような特定の聖書翻訳への批判を最初に生み出したのは、まさに聖書学的な知識であったのだからである。だから私は、そんなものは捨て置いて、学問的な知識に乏しい一般信徒としての立場からでき得る限りの議論をしているのである。そして、私の書いたことに対して、自由なコメントを求めたのであり、それに誠意を持って応えてきたつもりである。これは、今後も続けたいので、この一連の批判的な記事もそれに対するコメントと共にずっと残しておきたいと思う。
 最後に、前回の記事で、新改訳聖書の批判は、もうこれで終わりにしようという意味のことを書いたが、あれからデボーションで新改訳聖書を読んでいて、やはりちょくちょくと気になる箇所が出てくるので、それをこの記事の最後に挙げ連ねて行きたいと思う。新改訳聖書の引用は、一つのサイトに250節以内とあるが、このサイトでの引用は、まだそれに達していないが、無制限に引用するのを控えるために、ここに掲示するのは、書名、章番号、節番号、概略の説明句に留めたいと思う。

【新改訳聖書の疑問的な箇所】

詩編36:2・・・・・・・・それを憎むことで?
詩編37:27・・・・・・・住み着くように?
詩編45:4・・・・・・・・恐ろしいことを教えよ?
エゼキエル16:43・・・・もうすまい?
エゼキエル37:7・・・・・大きなとどろき?(骨の音が?)

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