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2011/10/07

三つの闇について

 主イエスは、山の上で弟子たちに教えられた。「神は高みにおいて、自らを魂の内へと像もなく、写しもなく与える」とエックハルトは語る。その教えを受け取るには、人は自分を捨て去ることにより、この世界のものから離れ、その精神が全く自由にならなければならない。そのとき彼にとって、見える世界はその輝きを失い、闇のようになる。彼に啓示される真理の光が、あまりにも明るい輝きを持っているからである。
 エックハルトは、私たちにとって3つの闇が存在すると言う。第一の闇とは、「この世界」という闇である。「光は闇の中に輝いている」とあるが、それは真理の光であり、それに比べれば、この世界は闇なのである。第二の闇とは、「魂」という闇である。天からの光を味わった魂は、もはやこの世界の物事に決して満足しない。そして、返ってこの世の物事から離れ、それらから自分を注意深くかくまい、固く身を閉ざし、自己の内面にのみ集中しようとするのである。魂は、自らこの世の光から離れ、闇の中に身を投じる。天からの啓示を見るためには、この世の光はむしろ邪魔なのである。第三の闇とは、「天の闇」である。エックハルトは言う、「天はいかなる光も持たない」と。「天はそれ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもない。そのように魂もまたこの闇の中では一切の光を失うのである。魂は、熱とか色とか名づけられるような一切を超え出るのである」と。
 この高みからは、すでに一切の被造物はすべり落ちており、従って人間は神と自分自身以外の何ものについても知ることがない。この高みは、また天使たちの領域でもある。エックハルトは語る、「すべての被造物ははじめ神から落ち、そのあとで天使たちを通過したのである」と。それゆえ「天使はその本性の内に一切の被造物の刻印を持つ」と彼は言う。私たちの魂がこの高み到達するとき、私たちの魂はその通過してきたところに再び接近する。そこには、私たちの魂の「刻印」が残されているのだが、それは言わば「抜けがら」のようなものである。というのも、私たちは確かにそこを通過したのだが、私たちの魂は、いま私たちの心のあるところにあるのだからである。そこで私たちは「高い山」、かの高みにまで登らなければならないのである。そうすれば、エックハルトが言うように、「魂は、神の子であるかの像の内に刻印される」のである。
 それは、不自由な状態なのであろうか。「主の庭に植えられる」と聖書にも書かれているが、それは不自由な状態だろうか。下界に住む人にとっては、あるいはそうかも知れない。しかし、かの高みに到達した人にとっては、その認識においては像も写しも必要ない。そしてそこには、また未知も距離もないのである。それは、どのような認識なのだろうか。それは、ある一つの目的を持った、それゆえある意味で非常に単純な認識である。エックハルトは言う、「羊は純粋である。一に帰した人々もまた単純である」と。それは、要するに「聖くなること」である。自己の内から、余計なもの、神の御心以外のものが無くなり、分かれ争うものが無くなったとき、魂は真の平安の中に入るのであり、もはや何かを求めて自分の外に出ていくことはなくなるのである。
 しかし、魂がいかに高くまで登りゆこうとも、私たちの体はこの地上にあり、私たちはこの地上において神とつながっているしかないのである。「魂はその諸力の内で光りと甘美さと恩寵を確かに受け取る」とエックハルトは言う。これが魂と神のつながりなのである。「光は闇の中に輝いている」。エックハルトによれば、聖ハウロも語っている、「ところで神は神の独り子の内にあってわれわれに語ったのである。つまり、わたしは神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである」と。エックハルトは祈る、「わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」

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