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2011/10/01

無である神について

 人が神を知るということは、いったいどのようにして起こるのか。人は、どのようにして神を見るのか。それをエックハルトはここで語っているのである。それは、一つの「認識の光」でり、あの筋金入りのパリサイ人であったパウロを改心に導いたものである。
 そのとき「ひとつの光が天からやって来て・・・」と言われている。その光が彼の肉体の目を見えなくし、精神の目を開かせた。そのようにこれら2種類の目は、決して同時に開くことがない。それは、人の精神が単一なものであるために、どちらか一方にしか関われないからである。
 この2種類の目は、それぞれの段階の知性に対応している。肉体の目は、私たちが通常それを用いて生活している論理的な知性に対応し、精神の目は、その上位に位置する高次の知性に対応しているのである。論理的な知性は、この世界である空間と時間の中で機能する。エックハルトは語る、「それは、周囲をめぐり、そして捜す。またそれは、あちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別の知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光の内に包みこまれた、その純粋な有の内に立つのである」と。つまり、この高次の知性は、空間にも時間にもとらわれることがなく、それらを超えており、それゆえそれは、もはや何かを捜し求めて、得たり失ったりすることもないのである。パウロの肉体の目が天からのまばゆい光によって眩まされて見えなくなったそのとき、彼の精神の目が開かれる可能性が生じた。しかし、それはあくまで可能性である。そして、「この光の内で魂の一切の力が飛躍したのだ」とエックハルトは語る。それは、どういう意味であろうか。彼はまた、こうも言っている、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである」と。つまり、パウロはこの光によって、何らかの知識を外から与えられたのではなかった。そのような方法では、人は神を知ることはできないのである。彼は、熱心なパリサイ派であり、自身の信念に基づいてキリスト者を迫害していたが、かの天からの光によって、その彼の人生の指針のすべてが完全に否定され、崩壊を余儀なくされたのであった。そのときパウロは、彼のそれまでの生き方を、つまり自分自身を完全に放棄した。この「自己の完全な放棄」こそが神を見るための必須条件であり、それは決して消極的なことではないのである。一般的には、自己放棄は一つの消極性と見られがちである。しかし、成長した魂においては、それは決して消極性ではなく、返って最大の積極性なのである。それでは消極性とはなにかと言えば、現実からの逃避、自己への根拠のない固執、絶望、錯乱、およびそれらの類である。
 そのようにして、パウロはとにかく神を見た。それはどのように見えたのか。エックハルトによれば、「彼は無を見た。それが神だった」のである。つまり、彼が神を見たとき、神から彼の内に入ってきた情報は、なにも無かったのである。エックハルトは語る、「あなたが何かあるものを見るならば、あるいは何かあるものがあなたの意識の内へと入ってくるならば、それは神ではけっしてない」と。つまり、誤解を恐れずに言えば、人は自分の外に神を見ることはできない。自分の中に見いだすのである。エックハルトも言う、「神は、その全神性を携えて、魂の根底にいるのである」と。もちろん神は、私たちの内にだけいるのではなく、全宇宙を包含し、支配している。しかし、それにも関わらず、私たちが自分の内に認識する神は、神のすべてなのである。なぜなら、神は決して部分に分けることができないからであり、この世界のどの部分にも完全な形で存在されるからである。
 つまり、どういうことなのかと言えば、例えば蟻が人間を知ろうとしても、それは到底不可能であろう。それは、蟻と人間は、あまりにもかけ離れており、想像することさえ無理だからである。そのように人間と神がかけ離れたものであったなら、人間に神を知ることは不可能であろう。しかし神は、人間が神を知ることができるように、彼をご自身の姿に創造されたのである。つまり、何かを知るとは、実は自分を知ることに他ならない。そして、人が神を知るとは、自分の中にある神の姿を知ることなのである。しかしそれは、そうだからと言って、何か神ならぬ虚しい幻影を捉えることなのではない。それは、同時に神を本当に知ることなのであり、神の領域に足を踏み入れることなのである。エックハルトによれば、アウグスティヌスは言っている、「一切の事物が魂にとって無となるところ、そこに魂は神的本姓へと通ずる秘められた入り口を持つのである」と。人が自分を完全に捨て去るとき、彼はこの秘められた入り口に立つのであり、そこで神に出会うのであり、それ以外の方法はない。そのために神は人となったのであり、キリストと父なる神との関係もまさにこのことによったのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちは主に祈ろう。わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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