« 2011年9月23日 | トップページ | 2011年10月1日 »

2011/09/26

三つの貧しさについて

 エックハルトがここで語っている3つの貧しさとは、一言で言えば、「自分を完全に捨てる」ということである。人は、「神のために」と意志することをもって「自分を捨てた」と見なす。しかし、「神のために」と意志している者が、実は彼自身であることを見落としている。つまり、彼の献身の質や度合いは、彼自身にかかっているのであり、そのままでは、それが自分本意なものであることも十分可能なのである。例えばペテロの場合、彼は家族も財産も仕事も捨てて主イエスに従ってきたのだったが、主イエスの十字架を理解できず、主をいさめるようなことをしてしまったし、主の苦難を前にして、3度主を否んでしまった。つまり、私たちが決意する献身は、それがどのように純真で立派なものに見えても、神の御心から見ると、常に早とちりで頼りないものだということである。
 それでは、私たちはどうしたらこの不完全な献身状態から解放されるのだろうか。それは、献身の形態や方法等さえもすべて神に完全にゆだねることである。そして、それがエックハルトがここで言っている1つ目の貧しさとしての「何も意志しない」ということに他ならない。しかし、「何も意志しない」と言っても、文字通り何も意志しないのではない。というのは、生きている限り意志を持たないことはできないし、意志を持たない限り、神に従うこともまたできないからである。そこで正確に言えば、「自らは、具体的には何も意志しない」ということであり、常に自分の意志を神の御心により修正することである。つまり、その人は、ある時点においては、一つの明確な意志を持っているのだが、彼はそれにまったく執着してはおらず、いつでもそれを投げ捨てる意志を持っているのである。実際彼は、それが必要とあれば、日に何度も、彼の持っていた意志を水泡に帰し、その都度神のために新しいことを意志し始めることを厭わないのである。そして、そのようにして常に神の御心を探し求めていると、それ自体が彼のこの上ない喜びとなるだけでなく、それが日常的に行えるようになる。そして、自分がそれまで何と自分勝手な考えに支配されて生きてきたかということに気づくのである。そのようにして、彼の中から彼自身の意思が取り去られて行き、常に神の御心をのみ追い求めるようになることにより、彼は神が彼にあらゆることを示してくださることを知るようになるし、また神により彼にはすべてが可能であることにも気づくのである。しかし同時にまた、彼を一つの誘惑が襲うことになる。それは、彼が文字通り自分を失うことへの恐れである。彼がすべてを神にゆだねるにつれて、彼のうちに大きな力を感じるのだが、その力が彼をどこか見知らぬところへ運び去って行ってしまうように感じ、彼はもう一度自分を取り戻そうとして、あるいは罪の中へ逆戻りするということがあるかもしれない。エックハルトが他の説教の中で言っているように、「魂はみずから無となり、神が魂を支えるまでは、自分自身では再び自分自身に帰り来ることができなくなるほど遠くまで離れ出る」ということが起こるからである。しかし、そのようなことを繰り返すうちに、ついにあるとき、「神がその非造性によって魂の無を支え、魂を神の有のうちで保つ」という状態に恩寵により到達するのである。そのとき彼は、どのような存在となっているのであろうか。それは、一見彼という自己が完全に破壊された状態のように見えるかもしれない。しかし、そのようになる前の彼が果たして、本当に彼自身だったのかは、非常に疑わしいのである。というのも、彼はもともと、自分がどのように生まれてきて、これからどのように生き、そしてどこへ行くのかを知らずに生きていたからである。しかし、今彼は神の御心を求め、それに生きている。彼は、彼自身の意思で神に完全に服従し、神はすべてを彼に与え、教え、彼はその神の恩寵の中で、すべてを知っており、すべてが可能なのである。それゆえ、彼はいまや最も自由な者であり、もっとも彼自身でもあるのである。
 エックハルトが語る2つ目の貧しさとは、彼が「何も知ることがない」ということである。彼は、すでに「何も意思しない」という状態に達した。それゆえ、彼にはもはや何も知るべきことはない。彼は、彼に必要なもの、そして、彼が神に仕えるのに必要なものはすべてすでに持っているのである。それゆえ、そのような彼にとって、「新たに何かを知る」ということは、もはや起こらない。実に彼は、何ものもあえて知ろうとはしないし、またその必要もないのである。そればかりか、彼は神に、自分が何ものも新たに知ることがないことさえ求めるのである。というのは、その新たなものは、彼にとって、必ず悪いものであるからである。彼には、彼に必要なすべてが与えられている以上、それ以外のものは、何であっても必ず悪いもの意外ではあり得ないのである。
 3つ目の貧しさは、エックハルトによれば究極のものであり、「何も持たない」ということである。もちろん彼は、もはや自分のためのものなど、何も持っていない。その彼が、あえて何も持たないということは、「神のためにさえも何ももたない」ということを意味するのである。それは、まさに神との関係のすべてを断ち切ることを意味する。彼を神につなぎとめていたすべてをいまや彼は、彼自身から断念するのである。つまり、彼の中に神が存在するような場所をさえ、彼の中から投げ捨てるということである。それを用意したのが彼である限り、彼はあえてそうすべきなのである。というのは、彼にとって、すべては神から与えられたものでなければならず、もはや彼自身が作り出したり、備えたり、とっておいたりしたものは、彼と神の関係にとって、障害以外の何ものでもないからである。そして、彼は神との全関係をかけて、神との関係を断ち切るのである。それにより、彼を神につなぎとめているのは、もはや神以外ではないことになる。そして、それこそが彼と神との唯一の正しい関係だったのである。
 エックハルトは語る、「この話が理解できない人がいても、そのことで心を悩まさないでいただきたい。人がこの真理に等しくならないかぎり、人はこの話を理解することはできないであろうから。というのも、それは神の心から直接に発した、ひとつの露な真理だからである」と。彼は祈る、「わたしたちが今日の話のように生きるよう、またそのことを永遠に経験するよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年9月23日 | トップページ | 2011年10月1日 »