« 2011年9月16日 | トップページ | 2011年9月26日 »

2011/09/23

魂の内にある火花について

 エックハルトがここで言っている「魂の火花」とは、魂に与えられた「神を知る力」、「認識の光」とでもいうべきものである。魂は、様々な方法で神を求める。あるときは、自分の周りの世界を探求することにより、またあるときは、自己の内へと沈潜し、黙想することにより。しかしこの光は、それらとは全く異なる方法で神を認識しようとするのである。それは、エックハルトによれば、神が創造したところの「神と魂の同等性」によるのである。それでは、魂は神とどのように同等なのであろうか。再びエックハルトによれば、「魂は被造物であるというこの一点においてのみ神と異なっている」のである。しかしこの違いは、無限に大きな違いである。それにも関わらず、聖書によれば、神は人をご自身の姿に創造されたという事実がある。これは何を意味するかと言うと、魂はその有においては、神と本質的に異なっているが、ある特定の働きにおいては、神と同等であるということなのである。そして、その「神と同等の働き」がすなわちエックハルトの言うところの「魂の火花」なのであり、人はそれを通して神を完全に知ることができるというのである。それを「火花」と呼ぶのは、それがあるエネルギーを持っているからである。それは、ある強い意志を持った「認識の光」であり、その目的は、何かを得たり、成し遂げたり、愛したりすることではなく、あくまで「認識すること」なのである。そしてその方法は、エックハルよれば、「神自身を生みこむ神の働きの内で神を受け取ること」であり、この働きこそ、人に与えられた、神と同等な一つの働きなのである。
 これは、ある特殊な認識である。というのも、通常の認識は、自己との違いから対象を把握するのに対して、この認識は、自己との同等性から対象を把握するからである。また、この認識は五感を用いず、それらから取得される情報を基に、あれこれと論理的な思考をも行うことがない。というのは、エックハルトが言うように、「そこには、未知も距離もない」からである。そこで、この働きにおいては、認識はもはや合一のための手段でもまた過程でもない。ここにおいては、認識はそのまま合一なのである。それゆえ、この認識に到った者は、また神との合一にも与ることになるのであり、再びそれはまた、天地の創造にも関わることなのである。というのも、エックハルトによれば、神はこの世界をそっくりそのまま、今というこの一瞬において、再創造するからである。しかし、そのような巨大なエネルギーに満ちていながらも、ここは、エックハルトによれば、さながら「静粛なる砂漠」のようである。そこがすべてのものの始まりであり、また終わりだからである。それゆえ、そこには、もはやだれも住まいする者もなく、そこがどのような場所なのかについても、いかなる方法によっても伺い知ることはできない。そこは、実に「単純なる根底」であり、そのようなところへ、かの「認識の光」は行こうとするのである。しかし、あなたがこの場所へ赴くことをあえて望むようになるためには、あなたは「自分自身および被造的事物一切から離れ去ることにより、時間にも空間にも触れることのない魂の火花の内で、ますます統一され、浄福なものとされ」なければならない。そのとき、それまでずっと迷い続け、何ものをもってしても満足することのなかったあなたの認識の光は、「その世界の最内奥においてはじめて満ち足りる」とエックハルトは語るのである。
 彼は祈る、「私たちがこのような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理が私たちを助けてくれますように。アーメン」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年9月16日 | トップページ | 2011年9月26日 »