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2011/09/16

神が魂の内に子を生むということについて

 福音書には、一人息子に死なれた寡婦の話が載っている。息子に先立たれることは悲しいことだが、さらに悲しいことには、彼女が寡婦であり、もはや夫がいないので、新たに子を儲けることもできないのである。エックハルトは、この死んだ夫とは「知性」のことであると言う。そして、生まれつきの魂も、霊的にはちょうどこの寡婦のように、何の望みも無い存在だと言うのである。彼は語る、「知性の内で生きることがなければ、息子は死ぬのである」と。しかし、この死んだ息子に向かって、主イエスは語りかけられた、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と。この「起きなさい」とは、すなわち「わざから起き上がって、魂の上へ、自分自身の内へとあなたを起きなさい」という意味だとエックハルトは言う。そしてこの「自分自身の内へ」ということは、「知性の内で生きる」という意味である。つまりその目指すところは、「時間を越える」ということなのである。「知性はいかなる時間にも触れることがない」と彼は語る。それはどういう意味かと言うと、つまり、そのように私たちは、一切の被造物を見捨て、それらから離脱し、時間を超越した世界で知性的に生きなければならないのである。「神は永遠の内の一なる今においていつも働く。神の働きは、神の子を生むということにある」とエックハルトは語る。神は、「永遠の一なる今」において、あなたの心に神の独り子を誕生させられるのである。
 これらのことを一言で言えば、すなわち「生きた信仰」ということである。それは、神の全能性をどこまでも信じる信仰である。そのためには、私たちは時間を超えなければならない。つまり、時間とは関係なく、また時間の関数であるところの物理法則とも関係なく、さらにまた、これから時間と共に起こり来るすべての恐るべきこととも関係なく、そしてまた時間と対比されるところの私たちの考えるすべての戦略や可能性とも関係なく、「主よ、あなたにはすべてが可能です」と告白するのが「生きた信仰」である。そのときあなたの心に、真に神の独り子が誕生するのである。「神はその子の内で自分自身を語りだすのである」とエックハルトは言う。すなわちキルケゴールが言うように、「自己が精神となるまでに自己の本質が根底から動揺せしめられて、一切が可能であるということを理解するに至ったような人間のみが、神との交わりにはいったのである」。この信仰こそが、人をして神の独り子と同じ姿にするのであり、それは、「神が私たちの魂にその独り子を生むこと」によるのである。
 またエックハルトは語る、「魂は自分の外へ神を、神から、神の内へと生むのである」と。つまり、魂もまた神の独り子を生むのである。自分の内から神の内へと。しかし、私たちと神との間には、決して越えることのできない壁がある。そして神の御心も、私たちが神になることなどではなく、私たちが私たち自身として生きることなのである。それでは、エックハルトが追求する「神との合一」とは、いかなることであろうか。それは、私が私自身でありながら、最大限に神に接近すること、すなわち「神を生むこと」なのであり、そのことを通して、私たちは神を真にそのあるがままの姿で認識し、その内でまた自分自身をも、そのあるがままの姿で認識するのである。その能力を神が私たちに賜ったとエックハルトは言う。「このことは、魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生むということによってなされる。そこでは魂は神の似像である」と。さらに彼は語る、「多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である」と。
 エックハルトは祈る、「主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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