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2011/09/12

神の言について

 「神はすべての事物の内にある」とエックハルトは語る。たとえ聖霊は与えられていなくても、神ご自身は遍在なるお方だから、信じない者の内にもおられるし、またその他の被造物の内にも神は同時に臨在されると言うのである。そして彼は、その超越性を安易に神の全能性によって説明しようとはせずに、むしろその事実を基にこの世界と神と私たちとの関係を解き明かそうとするのである。そして、私たちの目には見えない一つの仮説を提示する。すなわち「すべての被造物は、外へと流れ出ながら、しかもそれ自身の内に永遠にとどまりつづけている」と。聖書もまた「見えるものは見えないものから出てきた」と語る。そして、その見えないものの起源は神であるゆえに、すべてのものは神から出てきたということになる。神が存在しないなら、すべてのものもまた存在しないのである。この聖書の意味をエックハルト流に表現すれば、「すべての被造物は、神から流出した」ということになる。しかし、そのことと上で述べたこと、すなわち「神はすべての事物の内にある」ということは、どのように関係するのか。それは、これらが永遠の世界のできごとであると考えることによるのである。すなわち「私たちの流出」ということが「永遠の世界のできごと」であり、見えるものは、この見えない「永遠の世界のできごと」から生じた、いや今まさに生じているということなのである。つまり、私たちの流出が永遠の世界のできごとであるならば、それは文字通り永遠に続く。流出している当の私たちは、それを果てしない時間の流れとして自覚する。しかし私たちの流出自体は、時間の中の現象ではなく、永遠の世界におけるひとつの事実なのである。そして「神の内にあること」と「神から流出すること」とは、永遠の世界における私にとっては、2つではなく1つのことなのである。すなわち、聖書に「神は、あなたの出づると入るとを守られる」とあるように。そして、このことを受け取る者は、神がすべての被造物の内に同時に臨在することを受け取るのである。そればかりか、彼は、エックハルトが語るもう一つの深遠な洞察をも受け入れるであろう。すなわち、「神はこの全世界をそっくりそのまま、この今において創造するのである」と。
 エックハルトが提示するこの世界の根本構造は、「神の言葉」の性質そのものである。すなわち「御言葉は、語り出されながらも、語る者の内に深く留まる」のである。そして、エックハルトは、私たち信仰者がこの世界を生きるための二つの大きな指針を次の聖書の言葉により提示する。すなわち「御言葉を宣べ伝えなさい」、「すべての事物の内で励みなさい」と。
 「御言葉を宣べ伝えなさい」とは、「それを語り出しなさい」という意味であり、それは再び「それがあなたの内にあることを覚りなさい」という意味だとエックハルトは言う。「神はすべての事物の内にある」、しかし、この世界の無数の被造物のうち、その内に御言葉を持つのは、人以外にはない。「神は、あなたを神の独り子として、けっしてそれより劣ることのないものとして生むために、人となったのである」とエックハルトは言う。それゆえ、この一つ目の指針においては、私たちが自らの力で努力することはなにもない。むしろ私たちは、自分の内へと沈潜し、エックハルトによれば心の最内奥にして霊的な世界の最高所であるその場所において、ただ神と向かい合うのである。
 二つ目の指針である「すべての事物の内で励みなさい」について、エックハルトは、三つの意味を説明している。第一に「すべての事物の内で神をつかめ」ということ。次に「すべての事物を越えて神を愛しなさい」、最後に「すべての事物において神を等しく愛せよ」という意味である。つまりこれは、自分から外へと向けられた試みである。これらから理解されることは、一見内向性に終始しているように見えるエックハルトの真理へのアプローチの真の目的は、実はこの世界への回帰であるということである。それは、生活の直中で神を見出し、自分のように隣人を愛し、貧しさの内にあっても豊かさの内にあっても、等しく神を愛し、その後に付き従うことを常に追求しているのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちがこの完全性へと到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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