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2011/09/01

捨て去るということの意味について

 一つ前の説教で「自分を捨て去る」ことについて言及したエックハルトは、今度は「捨て去る」ということ自体の意味を追求する。そのように、私たちの日常的な行為を霊的な視点から定義し直すことにより、この世界の深い意味を解き明かすのが彼のアプローチの特徴である。その例として、これまで出てきた代表的なものには「誕生」や「帰還」等がある。それでは、この「捨て去る」ことすなわち「放棄」とは、いったいどのような概念なのだろうか。
 実はそれは、エックハルトによれば「神の掟を行うための基本的な条件」なのである。「神のすべての掟は神の本性である愛と慈しみとから来る」と彼は語る。「わたしがあなたがたを全世界から選び出した」と主イエスは言われ、選んだ者たちに「自分を捨てよ」と言われる。主イエスに選ばれた人々の使命は、神の掟を行うことであり、そのためにはまず、「自分を捨てること」が必要だったのである。そして主イエスは、彼らを手元に置くのではなく、宣教という大切な使命を委ねて、全世界に遣わされるのである。これもまたひとつの「放棄」である。さらにこの「放棄」は、自然界の諸事物が生まれながらにして持っている機能でもある。例えば、エックハルトによれば、「自然の目指したものは、父が父であったように、わたしが父となることであった。子供が母の胎内に宿ると、子供は、形態、形相、形姿をとる。自然の力がそうなすのである。そのようにしてそれから四十昼夜をすごす。四十日目に神は魂を一瞬時よりもすばやい間に創造する。魂が身体のための形相と命とになるようにと。いまや、自然の働きは、自然が形相、形態、形姿において働くことができる一切のものをたずさえてそのわざを終えるのである。自然の働きは完全に終わる。自然の働きが完全に終わると、自然のわざは完全に知性的魂の内へと移されるのである。さて、これが自然の働きであり、そして神の創造なのである」と。つまり、自然が形作ったわたしたちの体を自然が完全に放棄し、それを神が創造し、放棄した魂が引き受けるのである。このように、創造する力のある主体は、それぞれに創造の後に放棄という業を行う。それは、創造したものを愛するゆえである。神の業は、その法則としての神の掟の実現であり、それを実現させるものは、愛と慈しみであり、そのためには完全な放棄が必要となるのである。
 それでは、この「放棄」とは、いかなるものであろうか。「いつだったかひとりの人がわたしのところへやってきた。彼はわたしに、彼自身の魂を救うために、土地や持ち物など大切なものを放棄したと語った。そのときわたしはこう思った。ああ、なんとわずかなつまらないものを捨て去ったのだろうと。あなたが、捨て去ったものに、どんな仕方であっても目を向けるかぎり、それは無知で愚かなことである。あなたがそういった自分自身を捨て去ったとき、あなたは本当に捨て去ったことになるのである」とエックハルトは言う。「放棄」とは、その対象を自由にすることであり、また自らもその対象から自由となることである。そのときその人はまた、その放棄した対象を真に愛することができる。つまり、放棄することは、愛するためであり、愛と自由は、神の掟において完全に実現される。さらに放棄は、その対象を真に認識することを可能にする。その対象から離れてこそ、その対象を真に認識できるのである。そのようにして、人がこの世界のすべてを放棄するとき、その人は、この世界を真の姿で認識するようになる。この世界のすべてを放棄したとき、その人の知性は、この世界の方法とはまったく異なる方法により、この世界を認識し始めるのであり、その力が魂に与えられているのである。そしてその力は、人が従来の認識の方法を放棄したときに始めて働き始めるのである。「創造されたいかなるもののうちにも真理はない。あなたが自分自身に、あるいは何らかのものに、どんな仕方でも心を留めているかぎり、わたしの口が色を知らず、目が味を知らないように、あなたは神が何であるかを知ることがない」とエックハルトは言う。しかし、自分を放棄することにより、神を知り始めた人は、神との関係、「我と汝」という関係の真の意味を理解する。そこに放棄があり、愛と慈しみがあるということを。そして、それは同時に、「一性」でもある。そこに神との真の合一と認識の光があるのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちがまさにこの一性でありますよう、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けてくださいますように。アーメン」。

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