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2011/08/31

自分自身を脱ぎ捨てるということについて

 「自分を捨て、十字架を負い、そして私に従って来なさい」とキリストは言われた。そのように、信仰においては、自分を捨てるということがまず最初にある。すべてはここから、すなわち自己放棄から始まる。そしてその後に、すべての祝福の訪れがあるのである。しかし、もし文字通り自分を捨て去ってしまったならば、自分の信仰や理性もまたなくなってしまうのではないかと心配になるかも知れない。しかし、もし彼が信仰の継続に最低限必要な何かを自分のために残しておく必要があるとするならば、彼はその取捨選択に迷うことになるのではなかろうか。もしかすると、彼の心の中の罪が、何かこの世的な要素を自分のために残しておかないとも限らない。しかし、そのような心配はないとエックハルトは言う。つまり、捨て去る者は、文字通り自分のすべてを捨て去って良いのであり、またそうすべきなのである。もし何か残して置くべきとするなら、そこに彼自身の判断が必要になるが、文字通りすべてを捨て去るのなら、彼はすべてから解放されるのである。しかし、そのとき彼は、はたして信仰を保って行けるのか。もし、行けるのだとすれば、彼を神に結びつけているものは、もはや彼の意志ではない。神ご自身が手を差し伸べて、彼をつなぎ留めていてくださるのである。そして、まさにそのことこそが彼に必要なことだったのであり、それこそが正しく健全な信仰だとエックハルトは言うのである。すなわち、自分の判断や考えによって神に従うのではなく、ただ神の恵みと導きにのみ従うということである。もっとも彼は、実はすべてを失ったというわけではない。というのは、彼にはまだ「神のために自分を捨てる」という意志が残されているからであり、これこそが神に喜ばれることなのである。そして、彼がその正しい意志を持ち続けるならば、彼はいつまでもその状態に留まり続けるであろう。そのようにして、彼のすべての望みは、ついに途絶えることになる。彼は、自分のすべての努力を放棄した。もはや、期待できるものは何もない。それはちょうど、キリストが死んで3日間、墓の中にいたのと同じことである。しかしその後、神はキリストを死から甦らせた。そこで、ちょうどそれと同じことが信仰者である彼の身にも起こり得るのである。すなわち、神が彼の心に信仰と神を知る知識を注ぎ込み、彼を再び立たせ、生かしてくださるのである。「私たちがキリストの死の様と等しくなるなら、その復活の様とも等しくなる」と聖書に書かれている通りである。
 しかしそうなるために、彼は次にどうすれば良いのだろうか。実はそれが、何もないのである。何かが彼の心に啓示されるのでも、そこから彼の信仰の再建が始まるのでもなく、彼が文字通り自分を捨て去ることができたなら、彼の成すべきことは、もはや何も残っていないのである。というのも、自分を捨てるということは、時間の中にいる自分を捨てることだからである。そのとき彼は、時間から解放され、時間に対して自由になる。そこで彼には、すでに前後も未来もない。それゆえ、もはやどのような戦略も必要ないのである。従って、そのような彼には、もはやいかなる概念も理論も倫理も意味がない。それらは、時間的なものに過ぎないからである。そのような彼にとって、すべては現在であり、もはや何かがやって来ることも過ぎ去ることもない。そのとき彼は、この永遠の中で神を認識する。神がどういうお方であるのかをありのままに知るのである。「そこには、未知も距離もない」とエックハルトは言う。「魂の内には、ひとつのあるものがある。その内では神は何もまとっていない」と。また彼は、同じ方法で、この世界のすべてのものを認識する。それは、一つの直感である。時間を介さない認識とは、直感的な認識以外のものではない。そして、この認識こそが本質的なものであり、認識の光なのである。
 エックハルトは語る、「どうすれば正しいあり方となるのであろうか。預言者の言葉に従えば二つのあり方においてである。預言者は、「時が満ちると、御子が遣わされた」と語っている。「時が満ちる」のには二つの仕方がある。ひとつは、たとえば晩に一日が果てるように、その終わりにおいて、あるものが「満ちる」場合。つまり、すべての時間があなたから失われるとき、つまり死するとき、このとき時が満ちるのである。二つ目は、時間がその果てに到るとき、つまり、時間が永遠の内へと入るときである。なぜならば、そこでは一切の時間が終わりを告げ、そこには以前も以後もないからである。そこにあるものは、すべて現なるものであり、新たなるものである。かつて生起したものも、これから生起するものも、あなたはここではひとつの現なる直観の内でつかむのである。ここには以前も以後もなく、一切が現在である。そしてこの現なる直観において、わたしは一切の事物をわたしの所有となすのである。これが「時が満ちる」という意味である。そのような正しいあり方にわたしが至れば、わたしは真に神の独り子となりキリストとなるのである。この「時が満ちる」ところにまで、わたしたちが至るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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