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2011/08/26

どう生きるべきか

 まず、誰もが持っているであろう疑問として、なぜ多くの人が人生においてこうも迷いの中にあるのかということがある。なぜそうなのか。なぜ、人生は誰の目にも不可解なものなのか。ここから、まず受け取るべきことは、「私たちはこの世界において、常に終わりの見えない危機的な状況の中に置かれている」ということである。もっとも人は日常的には、そのような問題の解決を自分独りでは困難なこととして一時棚上げにし、普段はそれについて面と向かって考えることをせず、とりあえず今日という日を存続することと、そこからいくばくかの楽しみを得ることに専念しているのである。しかし、それだからと言って、彼の危機的状況が去ったというわけでは決してないのであり、折りにふれて、生活の中で起こり来る様々な事件が彼を現実に引き戻し、その解決困難な根本問題を思い起こさせるのである。
 それでは私たちは、このような状況の中で、どのように生きるべきなのだろうか。一つの方法は、イエス・キリストを信じる信仰に入ることである。それにより、聖書という膨大なテキストが与えられ、そこに天地創造の経緯や人の造られた目的等が記されているゆえに、それを信じる者は、とにもかくにも、上記のような疑問からは解放されるのである。しかし、ここで重要なことは、聖書は彼にとって、信仰の対象であり、決して資料や道具などではないということである。もし、聖書が彼にとって、人生を生きるための参考資料のようなものだとしたら、そのとき彼はやはり、人生をどのように生きるかの判断を自分でしなければならないことになり、依然として迷いの中にいることになる。そこで、彼がその置かれている迷いの中から解放されるためには、彼は理由無く、無条件に聖書の記述を信じることが必要なのである。しかし再びそのことは、彼がそれに盲従しているだけであり、結果的には、彼は自分では意識せずして迷っていることにはならないのだろうか。否、そのとき彼は聖書に書かれていることを、彼自身の一つの決断をもって信じたのであり、それはもはや、彼が外から、あるいは誰かからあてがわれたものではなく、それは、彼自身の主体的な決断なのであり、そうであるべきなのである。つまり、彼は独力で、この世界のすべてを説明する真理を発見したのであり、騙されたのでも洗脳されたのでもないのである。もちろん、騙されたり洗脳されたりすることもあるいはあるかもしれない。しかし、人には自由意志が与えられており、そうでないこともまた可能である以上、それもまたその人自身の決断なのである。つまり、この世界には、彼にとって、彼を人生の迷いから解放してくれるものは、いまのところ宗教以外にはなく、それを信じないならば、彼は迷いから解放されることはないということである。たとえ彼が、科学の進歩に全面的に信頼し、それがもたらすであろう成果に期待したとしても、未だかつてそれを達成した者はなく、従ってその実現は、今はまだ遠いかなたであろうはずだからである。
 それでは、彼が信じた聖書は、彼に何をもたらすのであろうか。まず第一にそれは彼に、彼の現状に関する根拠を提示する。すなわち、なぜ彼を含む人間が迷いの中にいるのかということである。聖書は、その理由の一つに、罪を挙げている。そして、キリスト信仰は、それに一つの回答を与えるのである。しかし、それですべてが終ったのではない。なぜなら、それでもまだ彼は、自分の行く末について、定かには分かっていないからである。それを理解するためには、彼は、この世界において、神の国と悪魔の国が戦争をしているのだということ、そして自分が神の軍隊の兵卒であるということを知らなければならないのである。これにより、誘惑や困難がなぜ彼を襲うのかが理解できる。それは、彼を兵卒の勤めから逸らせ、忠誠心を崩し、彼を兵卒として何の役にも立たないものにしてしまおうとするのである。このこと、つまり、すべては単に彼を堕落させ、神の恵みから落とすためだけではなく、その真の目的が神への反逆であり、神の軍隊への挑戦であるということを彼が理解したとき、彼はさらに多くのことを理解する。すなわち、旧約聖書のすべてが単なる歴史や教訓や過去の遺物などではなく、それがそのまま現在の状況だということを。また、主イエス・キリストは、彼の救い主であるだけでなく、彼の所属する軍隊の最高指令官であるということを。それゆえ彼は、自分を守り、その救いの達成に努力するだけでは十分ではない。彼は、神の軍隊の兵卒として彼に与えられた本来の勤めを果たす必要があるのである。しかし再び、それでは、彼が救われたメリットはどこにあるのか。彼は、救われてありながら、なお戦いの中にあり、節制と大いなる束縛の中にあらねばならないとは。しかし、ここに大きな転換点と覚醒があるのである。
 つまり、私たちは今まで何を求めていたのかと言えば、とどのつまり、それはせいぜいのところ、この世における幸福にすぎなかったということなのである。そして、そのようなこの世的な思いの延長からは、決して神の国の祝福についての完全な知識に到達することはないのである。かつて神の民イスラエルは、約束の地を求めて荒野を旅した。それは、節制と大いなる束縛の連続であった。そして、そのような努力の果てに、彼らはついに、約束の地にたどり着いた。神が約束された乳と蜜の流れる地に。しかし結果的に、彼らはそこで幸福になったのか。否、彼らの旅はそこでは終わらなかったのである。彼らが神に聞き従わなかったために、彼らはついに遠い異国の地バビロンにまで連れ行かれざるを得なかった。つまり、そこすなわちバビロンこそが彼らの旅の終着点だったのである。彼らは、あの太陽の照りつける荒野こそが、実は彼らの約束の地であることに気がつかなかったのである。そこでは、彼らの着物は古びず、靴もすり減らなかった。また、万軍の主ご自身が彼らの斯業であった。そして、彼らは金銀財宝を身にまとっていた。後にそれらが捧げられて、黄金の幕屋が造られるほどに。彼らの食物は、天から無尽蔵に与えられ、彼らの律法は天の法則、その賛美は天の音楽であった。
 ああだから、私たちは、いまこのことを知らなければならない。戦いの多い、いまの私たちの人生こそ、実は天国であり、約束の地であるということを。キリストが「神の国は、あなたがたの直中にある」と言われたように、今まさに天国が私たちの生活の直中にあるのだということを。しかし、生まれながらの人間には、このことは決して理解できない。それが理解できるためには、聖霊により、私たちの心の目が開かれれ、天国の現実の中に入れられる必要があるのである。そのとき、彼の心に旧新約聖書のすべてが復活し、それらがまさに現在のできごととなるのである。そしてあなたは、今のあなたの現実の中で、聖書の言葉を生きる。「わたしの律法をあなたの心に書き付けよう」と言われているように、神はそれを新たな形であなたに授けられる。そして、主イエスがあなたを神の軍隊の兵卒とするとき、あなたは戦いの前線において、平安の内にダビデの詠んだ詩を高らかに歌う。そのとき初めて、詩編のすべてが真にあなたのための歌となるのである。しかし、あなたの戦いは、どれもあなたが初めて体験するものではない。それらは、アブラハム、イサク、ヤコブが戦い、ダビデとその勇士たちが戦ったあの誉れある「主の戦い」である。そして、その勝利は、すでに聖書の中に記されている。あなたは、主と共にその勝利を雄々しく戦い取るのである。

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