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2011/08/19

神の子の誕生について

 この世界には、ときとして私たちの目を見張らせような出来事が起こり来る。例えば、神の子が今から約二千年前にこの世界に誕生した。それを預言した天使は、エックハルトによればマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。聖霊が上から、至高の座から降りきたり、永遠なる父の光から、あなたのうちに来るであろう」と告げた。
 しかし、エックハルトはこの天使の言葉が、マリアにだけではなく、神を求めるあらゆる善き魂に対して語られたのだと主張する。つまり彼によれば、神の子は、今日においてもまた誕生するのであり、それも私たちの心の内になのである。そしてそれは、教理上のことや、人の思い込みなどではなく、実はこの世界の構造の本質に関わることなのである。「ここで理解すべきことは、わたしたちが、永遠のうちで神が生む神の独り子でなくてはならないということである」とエックハルトは語る。聖書もまた「初めに」と語りかける。しかし、世の初めと関わりを持たないような者に対して、はたしてそのように語りかけるだろうか。否、私たちはそれ、つまり天地創造の初めと関係しているのであり、それゆえにある意味で、私たちも世の初めから存在していたのである。というのも、私たちの救いさえ、天地の造られる前から定まっていたし、私たちのする「生む」という行為もまた、永遠の業だからである。この「生む」という行為により、世界は存続し続ける。しかし、霊的な世界にあっては、この生むという行為自体が永遠の業なのである。それは永遠に続く、というより、すべては一瞬の内に生起する。永遠とは、ある特別な一瞬である。そこには、時間というものがないからである。つまり、この世界において私たちが永遠を捉えるとすれば、それは今という一瞬のことであり、その一瞬が永遠に続くことなのである。それゆえ、すべての原因と結果も、この一瞬の中にあり、世界の歴史もすべてそこに包含される。そこでは、原因と結果は一つである。しかしそこは、すべてのものが凍り付いた死の世界というのではない。返って、すべてが活動的で、すべてがその原因に応じて、一瞬の内に生起する。それゆえこの永遠の世界において、「誕生」とは「生成」というような時間的な事柄ではなく、むしろ生むものと生まれる者との同等な関係のことなのである。このことに関して、「マリアが神をまずはじめに霊的に生んだのでなければ、神はけっして身体をもってマリアから生まれることはなかった」とエックハルトは言う。これがいわゆる同等性である。しかし、「同等」と言っても、人は神と全く同じにはなり得ない。そこには、創造者と被造物の純然たる区別がある。しかし、それにも関わらず、「人が神から生まれ、神が人から生まれる」という関係、つまり同等の関係になることを神が善しとされたのである。その確証として、御子が処女マリアから生まれられた。そしてそれは、エックハルトによれば、マリアが神を霊的に生むということを経て行われたのであった。というのも、この世界においてさえ、人が人を生む。つまり、「生む」とは、「自分を生んだものを生む」ということである。そこで、霊的な世界において、魂はそれを生んだもの、すなわち神を生むということが起こり得るのである。それでは、「神を霊的に生む」とは、どういうことであろうか。それは、文字通り「神を懐胎すること」であり、「自己の内に神を誕生させること」、「いままで神が存在しなかった自分の心の内に神を存在させること」である。しかしそれは、神を造ることなどではなく、神を「生む」ことであり、それ自体が神の業なのである。この世界で唯一、神的な行為がこの「生む」という業である。それは実に、「無から有を創造すること」であり、すでに人の業ではなく、永遠という一瞬の内で成される神の業なのである。
 かくして神の子が信じる者の心の中に誕生する。それは、彼が神を生むことであり、神の恩恵と彼自身の意志の共同の業である。それは、主イエスという王がこの世界に肉体をとって生まれたことに起因するのであるが、彼を信じる魂は、もはや彼を自分の内から神の内へと生むのであり、そのことを通して彼自身が神の内にもう一度新しく、神の子として生まれるのである。

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