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2011/08/10

自分の魂を憎むということについて

 この説教の中でエックハルトは、魂に関する深遠な洞察を述べている。それによると、魂は不滅であり、私たちがいま生きているこの世界と来たるべき永遠の世界、つまり死後の世界の両方に渡って存在するものである。つまり、大ざっぱに言えば、私たちは、五感とか感情、思考といった精神の働きから、自分が魂を持っていることを何となく自覚しているのであるが、魂の全体は、実はそれよりも遥かに大きい。そして、五感は肉体が死ねば意味をなさなくなり、また感情や思考は時間の無い永遠の世界においては、やはり意味をなさないことから、これらの魂の部分の多くは肉体と共に滅びるが、私たちが自覚していない部分は、永遠に保たれ続けるのである。そこで、私たちがもし、肉体と共に滅びる運命にある魂の部分、つまり私たちに自覚できる部分、すなわち私たちが魂だと思っている部分を愛しても、それはやがて肉体と共に滅びるのだということを知らなければならないのである。つまり、私たちがもし、いま自覚している魂の部分を魂の重要な部分だと思ったりすることがあるとすれば、それは大変な見当違いであり、私たちは滅びるべきものを魂と取り違えているのであり、魂の本質を見失っているのであり、自分の魂を正しく認識し、愛していないということになるのである。
 それでは、魂とはどのようなものなのだろうか。エックハルトによれば、魂は実に一つの宇宙なのである。「魂はすべての事物の像が刻みこまれる可能性をそれ自身にもっている」と彼は言う。そのように私たちの魂は、一つの宇宙なのであり、私たちの知性は、その小宇宙の中で神のような存在なのである。そこで私は、いったい何をしているのだろうか。再びエックハルトによれば、私はその宇宙、万物を動かす不動の原因でもあるのである。そして、神が私たちをそのように造られたのは、ただ愛によるのである。再び彼は語る、「いかなる精神といえども、いかなる天使といえども、魂の根底ないし魂の本質には触れることがない。その魂の根底、本性において、魂は、神が慈しみをもってすべての被造物へ発出するその原初へ、はじまりへと入り来るのである。そこにおいて魂はすべての事物を神の内で、それも、すべての事物があるようなその自然的純粋さの内においてではなく、それらが神のうちにあるような純粋な単純性の内でつかむのである」と。つまり神は、私たちの何もかもをご自身と同じ姿に造られたのであり、そのようにしてご自身を私たちに明かし、私たちが神を知り、真に愛することができるようにされたのである。なぜなら、エックハルトが言うように、「愛するか否かは、一つになれるかどうかにかかっている」のである。そして、「一つになる」とは、完全に同じになることであり、それが神が私たちを造られた目的なのである。
 それゆえに、私たちはこの世においては、自分の魂を憎まなければならないのである。それが、自分の魂を愛することであり、神を愛するということなのである。私たちの魂は、この世界において、常に成長の途上にある。「魂がその純粋な本姓にまで行きつくことはけっしてない。それというのも、魂はすべての事物がみずからの内で造られるのを知性的世界で見出すのであるが、その知性的世界はけっしてとらえることのできないものだからである。どんな思惟もそこまでは到達できないからである」とエックハルトは言う。だから、私たちがこの世界で成すべきことは、自分の魂を憎むことにより、魂本来の成長を最大限に実現し、永遠の世界のために備えることである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちの愛する主よ、わたしたちが魂を永遠の命のために護るよう、わたしたちの魂がまとう装いのもとでは、わたしたちが、わたしたちの魂を憎むようになることを。そのために神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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