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2011/08/06

神のために神を捨て去るということについて

 私たちは聖書によれば、神によって造られ、神の支配の中で、神の内に生き、活動している。その私たちが神を捨て去るということが果たして可能なのだろうか。それは、とてもできそうにないことではないだろうか。ダビデも詩編の中で言っている、「私は、どこに行ってあなたの御前を逃れましょうか」と。そこでこれは、「私たちが神を捨てる」というより、むしろ「私たちが神について持っているその概念を捨てる」ということなのである。
 私たちが神について持っている概念、それは、往々にして自分本意なものであり得る。しかし本来的には、神が私たちのためにあるのではなく、私たちが神のためにあるのである。そうなるためには、私たち自身の考え方が自分中心から神中心へと転換される必要がある。それには私たちは、自分というものを完全に捨て去る必要があるのである。というのは、私たちの神概念は、私たちの世界観の基盤であり、従ってそれは実は、この宇宙のすべての事物との関係でもあるからである。それゆえ、それ、つまり偏狭な神観を捨てることこそが、私たちが神から造られた祝福された最初の姿へと回復されるための唯一の方法だったのであり、そのとき私たちと神との本来の関係もまた回復されるのである。
 そのように自分を完全に捨て去った時、人は初めて、それまで持っていた、神という概念を捨て去ったことになる。そして、それは再び、彼が神そのものを捨て去ったことになるのである。というのも、いま彼は、神という概念を何も保有していないからである。そして、神という概念を保有せずに神との関係を持つことはできないのである。もし、そこに何事も起こらないならば、つまり、神の方からの何のアプローチもないならば、彼にはもはやいかなる望みも残されていないことになるだろう。
 しかし、エックハルトは語る、「わたしたちが独り子となっているのを神が見るや、神は激しくわたしたちへと迫り来る」と。なぜであろうか。再び彼によれば、「神は等しさそのもの」だからである。それゆえ、自己を捨てて、神から造られた祝福された最初の姿へと回復された者に、神は祝福を与えようとして、急ぎ迫り来るのである。このことが起こるゆえに、神を捨て去った、つまりすべてを捨て去った彼には、依然として神が残されているのであり、そのときまさに彼は神との本来の関係を回復するのであり、それこそが真に神を知るということなのである。そして、真に神を知るのは、この方法以外にはないのである。というのは、私たち自身の神概念は、常に偏狭なものであり、そのようなものを持ってしては、神との真の関係には至り得ないからである。神との真の関係とは、何だろうか。それは、父と独り子の関係である。そしてそれは、一体一の一なる関係、つまり一身同体の関係である。「わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である。わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛である」とエックハルトは言う。すべてを捨て去った私に、神からのアプローチが来るとき、神との関係が回復された自分を私は見い出すのである。この回復とは、何であろうか。それは、文字通り回復なのであり、彼が神のために失ったすべてのもの、そう、神を含む全宇宙を、御子を通して相続すること、そのようにして、すべての忘れ去られていた記憶を取り戻すこと、すべての失われたものをもう一度取り返し、そして、もはや永遠に変わらない存在となることである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、永遠なる父のように、確固として変わらずに、どこまるよう、神と永遠なる知恵とがわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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