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2011/08/03

純然たる無である被造物について

 「純然たる無」とは、どういう意味だろうか。それは、「まったく何も無い」という意味である。もちろん、神に創造された以上、被造物にも「有」というものは有るのであるが、それは、被造物自身が保有している「有」ではなく、神に帰属する「有」なのである。つまり、私たちが生来の知識として、持っていると思っているような形では、私たちが持っているものは、「まったく何も無い」ということなのである。そして、私たちの身体も一つの被造物である。それゆえ、この世界において私たちは、肉体の死というものを経験せざるを得ない。そのとき私たちは、自分の肉体が実は、自分自身には帰属していなかったことを自覚するのである。同じように、魂も私たちの心に帰属してはいない。だから私たちは、自分の魂について、ほとんど理解できていないのである。そこで、これらのことから、私たちは、「所有」ということについての生来の概念を再構築する必要があるのである。つまり、「自分のもの」という概念をである。そういえば、この世界に、真に自分のもの、つまり永遠に自分のものというものがいったいあるだろうか。たとえ法律的に「登記」ということをしたとしても、それを騙し取られることだってあり得るし、そもそも私たちは、その大切なものをこの世界に置いて、天国へと旅立たなければならないのである。そのように私たちが生来持ってきた「所有」という概念は、空しいものだったのである。というのも、もともと誰も所有していない、つまり誰のものでもないものに対しては、「所有」という概念自体がすでに成り立たないのである。むしろ、事は非常に単純であり、私たちは実は何ものも所有できないと共に、重要なのは、私たちが神の所有物であることを認めることなのである。しかしそのとき、再び「所有」ということがまったく新しい概念として現実のものとなってくるのである。というのは、聖書によれば、神は、神のものとなった人々に、御子を通じて万物を所有させるからである。そして、この「御子による万物の相続」こそが真の所有の概念なのである。それは、むしろ「共有」ということなのだろうか。否、そうではなく、完全な独占なのである。なぜなら、共有という所有はあり得ないからである。それは、まやかしの所有である。私たちは、この世界において、それをいやというほど体験してきた。でも、みんながそれらを所有するのではないか。確かにそうである。しかし、それにも関わらず、それは独占、つまり、すべての人が各々にそれらを独占するのである。主イエスは、「天国は、激しく襲われており、激しく攻めるものがそれを奪いとっている」と言っている。つまり、旧約聖書に記されている約束の地への侵略と略奪は、天国のことだったのである。そして、それがまた、「真の所有」ということを表わしているのである。ちょうどそこに記されているように、私たちは、雄々しくそれを略奪し、所有するのである。それが神と私たちの関係であり、神が私たちを所有したいと思っておられるその気持ちなのである。しかし、そのためには、私たちはこの世界において、すでに「所有」ということの概念を変革しなければならない。つまりエックハルトが言っているように、「純粋にただ神以外、何も他に捜し求めることのない人には、彼が神のみをただ直接に求めるかぎり、神はその神的心の内に秘めた一切を、それが神の所有物であると同じように、けっしてそれ以上でも以下でもなく、その人の所有となるように、その人に証し、そして与えるのである」と。これが私たちの究極の救いであり、万物の完成ということである。
 エックハルトは祈る、「すべての事物がわたしたちにあって完成され、神的恩寵がわたしたちの内で生まれるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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