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2011/07/31

神の根底にまで究めゆく力について

 それにしても、なぜ神の根底にまで究めゆかねばならないのか。それは、この説教の引用聖句に表れている。つまり、神から義なる者と認められ、その生涯において神を満足させるためである。エックハルトは、そのために私たちは、神について深く知る必要があると考える。そして彼は大胆にも、それが可能だと考えるのであり、人は、自分や友を知るように神を知ることができると言うのである。
 彼はまず、神を知る3つの方法を提示する。その第1は、「神的な光」を受け取る方法である。しかし、これには彼によれば、修練と浄化が必要である。第2は、御子を通して神を知る方法であり、これは万人に開かれた方法ではある。主イエスは、「わたしは、父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と言われた。そのように、神は主イエスにおいて、ご自身を私たちに完全に啓示されたのであった。しかし一方で、それは神の側から自動的に達成されるような恵みではない。実際に私たちが、それを真に自分のものとするためには、私たち自身の信仰の戦いが不可欠なのである。そして第3は、神を自分固有の領域においてつかむことである。というのは、エックハルトによれば、「神は神の全神性をたずさえて魂の根底にいる」からである。そこで、もし神を知りたいと思うなら、私たちの関心は、自己の内面へと向けられる必要があるのであり、そのようにして、「造られた一切の事物から自由となり、真理の真なる鍵をかけて、自分自身の内にしっかりと閉じ隠る」必要があるのである。また彼は語る、「主は復活の日に弟子たちに現れたが、そのときドアは鍵がかかったままであった。一切の無知と一切の被造性とから自由となった人についてもこれと同じことが言える。人がそのようになったときはじめて神がその人の内に現れるというのではない。神は本質的にその人の内にいるのである」と。そこで、神が彼の内にすでにおられるのなら、彼はまさに、「神を自分固有の領域においてつかむ」ことができるのである。それがエックハルトが彼の多くの説教を通して語っていることなのであるが、今そのことにここでこれ以上触れる余裕はない。
 さて、神について知った人は、それを持って神に仕える必要がある。しかし、その場合の障害は、彼が時間の内に生きていることである。というのは、「神から義と認められる」ためには、「彼の生涯において神を満足させる」必要があるからである。彼は、移ろい行く時間の内に生きており、そこに起こり来る様々な出来事に対する彼の自由意志による選択や戦略が、彼に自己を失わせ、結果的に彼を神から引き離してしまうということがあり得るのである。しかし本来、時間というものは、各一瞬々々の積み重ねなのである。そこで、もし彼がこの世界の空しい物事から離れて、それらを神の前に完全に断念することができるなら、彼の魂は、この一瞬の中に覚醒し、それを真に自分のものとすることができるのである。そのとき彼は、すべての時間を通じて、自分本来の生き方に立ち返ることができるようになる。この永遠に通じる一瞬をエックハルトは「魂の日」と呼ぶ。そして、そのような魂の内に神は、ある時、その独り子を生む。これが「神の日」であり、魂はこの日にもう一度神によって生まれるのである。そして、この「魂の日」と「神の日」とは、共に永遠の日の内で一つの一瞬なのである。というのも、神はこの一瞬の中におられるのであり、神はこの一瞬の中でこの全宇宙を創造されたのであり、いまも創造しているからであり、そのように私たちは、この一瞬、すなわち「永遠の日」の内において、神の神秘と世界創造とに関わるのである。
 そこで私たちは神の前に、この「永遠の日」を生きる必要がある。そうすれば私たちは、その一生涯を通じて、「神を満足させる」ことができ、神の御そばで、自分を自分自身の内面に、すなわち神の内に見出す者となることができるのである。

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