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2011/06/17

魂の内にある一つの力について

 人は皆、力を求めるものである。その力自体も彼の価値となるのだが、さらにその力によって、彼は「価値のある働き」を行うことができる。それでは、この「価値のある働き」とは、どのようなことだろうか。何か偉大な建造物を造り上げることだろうか。しかし、その建造物の価値は、むしろそれが持つ良い機能の方にあるのではないだろうか。そこで、人々を幸福にすることが価値あることと言えよう。しかしそれでは、人間にとって「幸福」とはなんだろうか。それは「神をより良く知る」ということである。これらのことから、「価値のある働き」とは「宣教」ということになる。そこで、「宣教を行う力」を人は求めなければならないのであり、信仰者の人生はそのためにあるのである。それゆえ、エックハルトがこの説教の中で語っている、魂の三つの「力」は、共に「宣教」に関わっているのである。
 しかし、私たちは日常的には、いつもそのように考えているわけではなく、漠然と何か他に良いことがあるように思い込んでいるのである。たとえば、有能な人とは、まず自分の目標、それも一般の人々には通常困難なような目標を設定し、その実現に向けて細心の戦略を立案し、着実にそれを実現していく人を想定しているようなのである。それに対して、神の御心のままに漂っているような信仰者をみると、何か非常に不まじめか、甘い考えを持った人間のようにに感じてしまう帰来がある。しかし、そのような知的でもあり、また技巧的でもある作業の結果を冷静に見てみると、意外にも結局はそれが私腹を肥やすためであったり、人間的な興味やせいぜいのところ、教養を養う程度のことであったりするのではないだろうか。この世界は、結局のところ、ルネサンスにしろ産業革命にしろ、人間的な理想追求や、勢力争い、さらには欲望の追求に帰結すると言えないだろうか。それは、人間存在の目的の大半が結局は、自己の欲望追求にあることによると思われるのである。
 それでは、エックハルトの提示する良いこととは、いったい何なのだろうか。彼は、三つのことを提示する。まず第一は、「処女性」である。つまり、「生まれる以前のわたしのように、自分の内外にあるすべての像に心を動かされることなく、偏見なく、感情におぼれることもなく、ものごとをありのままに捉える認識を持つこと」である。そのような人が、主イエスを真に心に受け入れる人なのである。つまり「処女性」は、「主イエスを得る」ということにおいて、最大の力だということである。第二には、「女性性」である。これは、「生むこと」つまり、「自分と同じものを生み出す能力」である。しかし、エックハルトが言っているのは、実に「神を生む能力」である。それは、主イエスを、つまり神を受け入れ、神の御心を自分の心とした人は、次に「それを生きる」こと、「生きて新しいものを生み出すこと」が可能とされるからである。それは、まさに自分を通して主イエスが生きること、つまり「御子を生み出す」ことである。第三には、「自分であること」である。神である御子を心に受け入れ、神の御心を自分の心として神と同化し、キリストが自分を通して生きるまでに神と一体となりながら、同時に完全に自己自身であること、それが可能であり、それこそが神の御心であり、神の愛であり、私が神を愛するということであり、私が神と真に一体となることなのであるとエックハルトは言うのである。そして、この「私であるところのわたし」をエックハルトは、「魂の城」という言葉で表現する。そこには、まことに神さえも入ることができない。いや、神にさえもうかがい知ることのできない私固有の領域がある。神がそのように私を造られたのである。それゆえに、私が神に従い、神と同化することに神はこの上ない価値を見出すのである。
 エックハルトは、この考えに彼の永遠の命を賭けている。彼は語る、「わたしがあなたがたに話したことは真実である。これを証するためにわたしはあなたがたの前に真理を証人として立て、わたしの魂をその担保にさし出そう。どうかわたしたちが、そのようにひとつの城となり、そこにイエスが登り来たり、迎え入れられ、そしてわたしたちのうちに、わたしが語った仕方で永遠にとどまるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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