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2011/06/15

魂という神殿について

 私たちの魂の内に、神がご臨在される聖なる場所、すなわち霊的な神殿があるとエックハルトは言う。しかし、日常生活において、私たちは食事もしなければならないし、生活費を稼ぐために労働もしなければならない。だから魂の内には、それらの事柄が同居しており、人はそのような状態から逃れることはできないのである。それでは、いかにして私たちは、自分の魂の神殿を日常生活の雑多な心遣いから守り、そこを神を礼拝するための聖なる場所に保つことができるのだろうか。
 エックハルトによれば、そのためには、私たちは、すべてのことを神への賛美のために行う必要がある。たとえ困ったことがあったとしても、また思い通りに物事が運ばなくても、すべてを感謝して神に栄光を帰すことである。しかし私たちは、ともすると神を信じているがゆえに、物事の好転を期待し、その目的のために神を誉め称えたり、または、苦行はしないまでも、例えば欲望を我慢して、品行方正を装ったりするようなことがないとは言えないだろう。それらの行為、それ自体は悪いことではなく、むしろ神への信頼と期待の現れともとれるかもしない。しかしエックハルトによれば、そのような行為は、実は好ましいものではなく、むしろ魂の内の霊的な神殿における礼拝を妨害するものであり、徹底して排除すべきものなのである。というのも礼拝とは、神と自分を認識すること、すなわち罪の告白と赦しに関わるものなのであるが、それに対して善行は、それ自体が神と人との間に立ちはだかり、両者の生きた交わりを阻害してしまうものと成り得るからである。
 そこで私たちは、余計なものを神と自分との間に置かないように気を付けなければならない。たとえその行為自体は良いものであろうとも、手段的な性格を持つ善行は、礼拝には不必要であるばかりか、もしろ妨げとなるのである。それゆえ主イエスは、「これらのものを外へ出しなさい」と言われたのであった。
 しかしもしあなたが、そのように礼拝の妨げとなるものを自分の意識の中から、すべて片づけ去ることができたなら、そのときあなたの魂は、神に造られたままの完全な神殿となる。つまりあなたの魂は、もはやあなた自身であることを遙かに超えたものとなる。そこにあるのは、あなたの一部ではなく、神の一部でもなく、実に神の全体なのである。かつてモーセは、神に命じられて天にある雛形に従い、神を礼拝するための幕屋を造った。そのすべてが今、あなたの内にあるのである。そして、あなたに必要なすべても、またそこにある。もはやあなたは、他の場所を探して外へ出ていく必要はない。神秘的なもの、天的なもの、それら霊的な宝のすべてがそこにあるのである。さらにそこは、あなたの始まりであり、あなたの終わりでもある。そのように、あなたのすべてもまたそこにあるのである。
 これらのことが意味することは、次のことである。すなわち、あなたはそこであなた自身を見つけるのである。それは、失われていたがもう一度回復させられたあなた、神の前のあなた、それこそが本当のあなただからである。それは、永遠の昔から神の内にあったあなた、これから永遠に至るまでも存在し続けるあなたなのである。

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