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2011/06/10

論述:離脱について

 エックハルトは、彼の研究の集大成とでも言うべきこの論述の冒頭において、彼の探求の目的と結論について語っている。それによると、彼の探求の目的は、「人を神に最もよく、最も近く結びつけ、恩寵により人を神の本来の姿と同じものにすることができるような徳を見い出すこと」であり、そしてそのような徳とは、「離脱」だというのである。それでは、この「離脱」とは、いったいどのような徳なのだろうか。また、この「離脱」というものは、神の母マリアが持っていた徳、聖書の内にも称えられているところの彼女の「謙虚さ」とどのような関係にあるのだろうか。
 これについてエックハルトは、「離脱は、愛にも、哀れみにも、また謙虚さにも優る」と言う。というのも、愛も哀れみも謙虚さも共に、それが神のみこころには違いないのだが、一方でまたこの世界の事物に対する行為であるからである。これに対して「離脱」はこの世界のすべての事物に背を向けて、神のみに向かうものだからである。それでは、聖書の中にこの「離脱」について述べられていないのはなぜであろか。エックハルトによれば、それはまさに離脱がこの世の事物をを対象にしていないことに起因する。そこで、もし離脱を所有している人がどのような形態においてであれ、そのことに言及する場合には、そのときは離脱はすでに離脱ではなくなってしまうということである。つまり、離脱は離脱として言及することのできないものであり、それゆえに聖書にも記述されていないのである。そこで、もし私たちがこの世界の中で離脱を所有している人に出会ったとしても、そのことを認識できないであろう。そして、このまさに「人に示すことも、誇ることもできない」ということこそ、「離脱」という徳の卓越したところだと言うことができよう。
 そこでエックハルトによれば、人が神に最もよく、最も近く結びつき、恩寵により神の本来の姿と同じになりたけれは、この「離脱」によらなければならないのであり、神の似姿に創造された私たちは、この離脱によって自ら神に近づくことができるのである。というのも、神ご自身がこの離脱の内に永遠の昔から留まっておられるのであり、離脱が純粋な無に向かうものであることから、これら2つの離脱の間には、何の区別も無いからである。
 それでは、人はどうすればこの離脱に到達することができるのだろうか。エックハルトは語る、「あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである」と。というのも、苦しみのみが謙虚さを生み出すことができるのであり、神がそのように定められ、人はそれに従うしかないのである。そしてこれが、人生の意味であり、それにより、その目的もまた明らかである。

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