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2011/05/19

無である神について

 使徒パウロが復活の主イエスに出会ったとき、まばゆいほどの光が天から彼を射し照らした。そして「彼は地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」と使徒言行録に書かれている。これに対してエックハルトは言う、「パウロの目が何も見なかった正にそのときに、彼は神を一つの無として見たのである」と。つまり、人がもしこの世界において神を見ようとするならば、そのときはどうしても、神を「無」として見るのでなければならないと彼は言うのである。
 ああしかし、たとえ「見る」と言っても、「無を見る」とは、すなわち「何も見ないこと」に他ならないのではないのか。しかし実に、この経験によりパウロの人生は、180度変わってしまうのである。だからそこには、確かに何かが存在するのであり、パウロが天からの光に包まれて、神を一つの無として見たとき、彼はいわば神の片鱗をかいま見たとも言えよう。エックハルトは言う、「この光の内で魂の一切の力が高まったのである」と。つまり、私たちはこの世界において神を見ることができるのだが、そのためには、魂の持っている一切の力が高められる必要があるのである。それは、どのような修行によるのだろうか。また、それにはどのくらいの年月が必要なのだろうか。しかしそれは実は、修行というようなものではないのである。というのも、彼によれば、この世界においては、「神へはいかなる入り口もない」からである。
 エックハルトは語る、「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関しては何も知ることはない」と。そして、さらに彼によれば、「恩寵や光が上昇したり増大したりすると理解している人は、まだ一度も神の内に来たことのない人である」と。つまりそれは、一瞬にして起こるしかないのであり、いつそれが起こるのかは誰にも分からない。それは、神の主権に属することなのである。
 しかし、このことについてエックハルトは、もう少し積極的なことを語る。すなわち、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである。このように必ずなるのである」と。つまり、いわば神の恩寵を自分に招き寄せるような何ものかがある。それが「自己放棄」であり、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである」と彼は語る。この「一なるもの」とは、すなわち「神」であり、エックハルトによれば、その神は、実は私たちの内部にいるのである。「神は真の光であり、魂にとってのよりどころであり、魂自身よりも魂に近くあるので、魂がすべての生成した事物から離れるならば、神が魂の内で輝き光を放つということは必ず起こらなくてはならないことなのである」と彼は語る。それゆえ、この神を、私たちはあり方なきあり方として、有なき有としてつかまなければならない。なぜならば神は、いかなるあり方もない形で私たちの内にいるからである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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